降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ある活動のやりとり 吟味の重要性について

ある活動を立ち上げようとしていて、やりとりをしています。

 

僕はちいさなものですが、今まで色々活動をはじめたり、運営したりしてきて、これが大事なんかなとか、これをやってたらあかんのやなとか、今も現在進行形で遅々としたものですが、そういうものも自分なりに積み重ねてきました。

 

その一つ、新しい活動をはじめる時に、本当に何がやりたいのか、本当に面白いと思っていることは何なのかということを吟味せず、明確化せずに場当たりに動きだすと、結果として大きなロスと少ない学びがやってくるという認識があります。

 

この吟味について、複数人でチャットでやりとりしたのですが、吟味の重要性についてはよく伝わってないような印象を受けました。リアルタイムではちょっと伝えきれなかったことを改めて整理してみました。

 

最近はそういうやりとりをブログにも転載してみています。また書き方が変わるので、もしこのブログで取り扱っているテーマに関心を持ってくれているのなら、こういうやりとりを見てもらうのもいいかもしれないと思っています。↓

 

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◆これからの活動について 自分の意図と提案

→自分が現状をどう受け取っているか
・現時点ではやれることが列挙されている状態。とりあえずやれること、やりやすそうなことも出ているけれど、やれそうな企画にただちにやる→やった感じでまた何かやれそうなことをやるというサイクルにはいるパターンになることがこういう場合に多いと思います。

 

けれど、それは危険で、趣旨がどんどん薄まり、場当たり的になり、建前としての意義や意味はあっても、実感の感覚としてはコアメンバーが自分たちがやっている意義や意味が感じられなくなると思います。

 

僕自身は、少人数のものに過ぎないのですが、色々場を持って運営したり、それがダメになっていった体験、立て直していく体験をしています(現在も進行形ですが。)。そのなかで、最初に動機と意図をきちんと煮詰めるために多くの時間を使ってもそれは全く無駄ではなく、むしろ大体こんな感じでいけるだろうと、なんとなく始めることが結局は膨大なロスや防げたはずのトラブルにつながったりするという実感はより強まっています。

 

はじめてみるまではわからず、活動するなかで気づいていくことはありますが、はじめに考えられることは考え、はっきりさせることははっきりさせる作業が十分でないのに、「とりあえずやってみよう」というのは、子どもとか、ゼロから始めてこれからいっぱい失敗して学ぶ若者だったらいいですが、ある程度他にやることもあり、大事なことをいくつも抱えている大人においては、投げやりに近い態度だと思います。

 

本当に大切なものと考えているなら、まず明確化できることはしておくことが重要で、それをすることによって、運営のことだけでなく、活動における学びや気づきもまるで違ったものになると思っています。

 

→吟味の意義について
・昨晩、僕が上手く伝えられなかったこと、ピンときてもらえなかったことの一つは、吟味の重要性だったと思います。僕の吟味の重要性の理解はソクラテス田中正造の研究者であり、自身も教育実践を行っていた教育哲学者林竹二の考えによっています。

 

林は被差別部落定時制など、一筋縄では行かない学校に、人間とは何か、生きるとは何かというテーマで出張授業に行き、学生と対峙しました。林の授業で学生たちの表情が明らかに変わり、人格に近いところまで変容していく様子は写真集(※1)などになって出版もされています。

 

林の授業の方法は、ソクラテスの問答法を基盤としており、ソクラテスが市民に質問したように、薄っぺらな知識や自分に根付かない認識、その場限りの思いつきなどが林の提供する授業や直接の問いによって剥がれていきます。

 

フレイレ省察(※2)とも通じることですが、とりあえず出てくることを剥いだ後に本当のもの、創造的なものが現れるという考えです。みんなで思いついた意見を言い合って、色々意見が出てよかったね、というあり方にはほとんど意味はないと林は指摘します。林は何かを学んだことの唯一の証は、自分が変わったということであり、学習の結果が一片の知識であるならば、それは何も学ばなかったということだと言います。そして本当に現実を変えるもの、自分を変えるものは、自分の表面についているもの、手軽に用立てられて思考停止できるものが吟味によって剥がれた後に現れてくると考えるのです。

大昔のソクラテスとか、教育者の机上の空論だろうなと感じられるかもしれませんが、僕は林は本当に人を変えてきたし、その考え方は妥当だと思っています。僕は心理学科にいましたが、実際性、実践性を考えたらカウンセリングはほんの小さな範囲を担当する一技法にすぎないと思い、そこから出ました。僕にとっては現実や自分を実際に変える実践性、実際性が最重要であり、それをずっと追求していってそれが現在の活動に繋がっています。フレイレもそうですが、林も空論など言っていないと思っています。(ただ世間はどんどん忘れていって、林などいなかったみたいに教育が語られています。世間やアカデミズムにおいては流行り廃りがあって、林の実践も文学史的なデータとしては残っても、彼が到達したような実践的知性、知見は賽の河原の石のようにその後には積み重ならないもののようです。)

次回の話しあいでは、コンセプトを確立する、芯を作ったらいいと思うというふうに言いました。また本当に自分が面白いと思うことは何か(自分の核心的関心・切実な関心・根源的な問い)ということを活動趣旨に乗せることが重要だと思うと言いました。コンセプト、活動の芯をつくることは吟味に当たります。大体こんなぐらい、こんなイメージ、とぼやっとしているものを明確化する作業は吟味を伴います。玉ねぎの表皮を剥ぐように、吟味することが重要です。剥ぐ作業をしてからはじめて、ようやくに、いいもの、妥当なものが出てくるのです。(・・・と言っても現実感はなかなか感じられないかもしれませんが・・。)

この吟味という作業は、高度なセンスがいるものではなく、地味にやるものです。しかし、自分との一致度は高めている必要があります。もし、ある楽曲に対して、一度聞いてみて、大して関心がないなら、自分の部屋で日常で聞くでしょうか。本当にいいと思っているもの、あるいはその可能性を持つ限られたものしか聞かないのではないでしょうか。自分が本当に好きだと思うもの、本当にいいと思うものに対して、人間は妥協のない吟味をかけているものだと思います。ところが、あることが仕事だったり、義務的な勉強が関わることだったりすると、人は充実の最大化にではなく、あっさりと苦痛の最小化に向かいます。しんどくなくて、楽であればいい、となるのです。自分が自分に騙されて、手軽なものが実際にいいように、あたかも自分が求めているかのように思いこめるのです。ですが、後者は抑圧なのであり、持続的な活動や動機を生みません。むしろ拡散的になります。

今回の活動は、持続的な活動、長期的な視野を持った活動として位置づけられていると思います。ですので、人間が自然に持っている抑圧や思考停止の傾向の表皮を剥いでいく吟味の作業が必要だと思います。それはシンプルです。本当の本当にそれが面白いと感じているのか、もし違うならどんなものなら本当に自分が一致して面白いと思えるのか、ということを確認していくだけだからです。何も高度なものはいらないですが、ただ面白さにおいて妥協しないという学びの本質だけは自分においておくことが必要だと思っています。

 

※1 学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

 

学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

 

 

※2 フレイレは、対話を単に相互変容、相互更新をおこすものとしてだけでなく、世界を変革させる言葉「真の言葉」に近づく手段であるとします。フレイレは、対話には行動と省察の二つの次元があり、その相互作用、循環によって「真の言葉」が現れてくるといいます。 

行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。

行動という次元から根こぎにされた言葉は、当然の帰結であるが省察とも無縁なものとなり、聞く者と語る者の双方を疎外する。泡のように虚ろな言葉からは真の現実否定も変革への意思も、ましてそのための行動も期待することはできない。他方、行動だけを強調して省察を犠牲にすると行動のための行動に邁進することになり、真の実践は否定され、対話は不可能になる。 里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

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林竹二について過去のブログでも取り扱っています。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

kurahate22.hatenablog.com

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

神田橋條治さんの話しから思うこと

精神科医の神田橋さんの『発想の航路2』を何年も前に読み、だいぶ面白かった記憶がある。

 

先週の私の探究・研究室に来られていた山口純さんに神田橋さんの『心身養生のコツ』を紹介してもらったので、またちょっとその周辺をながめていると、神田橋さんの講演を記録されているブログがあった。

 

shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp

 

神田橋さんの話しを読んでいると思うこと。

 

記憶という止まった時間、繰り返し同じ反応がおこることを人間は抱えている。

 

止まった時間に対しては、言語がアプローチできるものもあれば、連動するイメージやリアリティそのものを利用する方法がある。

 

言語を介して認識していること、そうして生きていることは、当たり前のことのようにも思われるけれど、実はそれ自体でかなり心身を弱らされているのではということ。
中島敦悟浄出世』では沙悟浄は言葉を用いるがために病気になっている。)

 

言語によって認識するということは、止まった時間としての世界を受け入れるということであり、それは言葉と一体化している象徴が心身に直接影響を与えるということでは。(エレンベルガー『無意識の発見』では、ある民族の間では致死性の毒とされているが実際には無毒なものを少年が食べて死んでしまうという事例が紹介されている。)

 

心身に直接影響与える象徴と結びついている言語のない状態であることを体験することと、同じ体験であっても言語を通して「現実」だというリアリティに直面させられることとでは、後者の方がダメージが大きい。

 

例えば「病気になった」「怪我をした」という言語を介した認識自体によって、「本当にそうなのだ」(「本当」ではあるのだけど。)と脳が錯覚して、「病気」や「怪我」という象徴に自分というものが釘付けされることによる、二次的に受ける影響はかなり大きいのではないか、と。

 

本当かどうか知らないけれど、想像妊娠においては「予定日」に陣痛がきたり、お腹が大きくなるとか、女性パートナーの妊娠で男性が想像妊娠になり、つわりのような症状になるとか、男性の場合はそれらがパートナーの出産と同時に消失するとか。

 

doctors-me.com

 

そういうようなことがあるのならば、言語を介してある状態を「本当だ」と思うことは、本人の意識とは別に、実際に持続的な擬似状態(しかし体には十分ダメージを与える)に人を釘づけてしまう。

 

また男性の想像妊娠の症状は、神田橋さんが『発想の航路2』で言及していたことを思い出させる。ある症状において、治療者に患者の症状が伝染して、一時的に一種同様な状態になることがあるが、それをもって治療の進展とみなすことができると神田橋さんは指摘していた。

 

それは、石牟礼道子さんが水俣病患者の苦しみに対して何もできなくても、共に自分のことのように苦しむことを「悶え加勢」と呼び、評価することにも通じるように思う。石牟礼さんは悶え加勢によって苦しむ人は少し楽になるのだ、という。

 

www.soshisha.org

 

そう考えると、男性の想像妊娠は実際にある程度を本人の苦しみを肩がわっているのではないかと思う。(自分の苦しみを別の相手にも味わそう(すると自分は少し楽になる。)というのは世間一般にみられる人の行動であり、共有されている感覚でもあるだろうから、別に何の不思議もないとも思えるけれど。)

 

ある人の状態が別の人に伝染すること、そのことによって苦しみが分けられ、あるいは喜びが高まるということがある。これはイリイチが、近代以前において、生の本質はお互いが影響を与えあう躍動性(aliveness)にあったというところに通じると思う。

 

さて言葉による影響を打ち消すような、怪我に対して行う慣習があると聞いた。刃物で傷ついた場合、自分ではなく、刃物のほうに軟膏を塗るというようなことが行われていたらしい。これは、刃物という認識が結びついている象徴(害を与えるもの)に軟膏という治すものの象徴を上から被せることによって、混乱させ、言葉による二次的なダメージを打ち消すことを意図しているのではないかなと想像する。

 

日本でもどこかに頭をぶつけたら、その同じ場所にもう一度そっと同じぶつけた体の箇所をあてるということをしていたところがあるとか。こちらのほうは、体験の上書きといった対処のように思える。

 

言葉による合理的思考、「現実」認識ということ自体がニュートラルなものではなくて、大きな弊害を伴うものであるとき、その弊害を打ち消すわざのようなものも体験的に生み出されていたのだろうなと思う。

 

あと、自分のコントロールの感覚を高めていくための技法で、フラワーレメディという、世間でいうところの疑似科学、疑似医療なのだけど、そのやり方が効果的という事例も紹介されてて面白かった。まあいってみるならばイメージ療法というか、そういうものに属するのだと思う。

 

もう1つ、話しておきます。これはオカルト的ではないけれども、あまり皆さんは好かないかもしれない。バッチフラワーというのがある。バッチフラワーを知っている人は変な精神科医なんです。心療内科の先生方はよくご存じです。エドワード・バッチという人が英国にいて、僕が生まれる1年前に死んだので古い人です。この人は、イギリスでやたらはやって金持ちになったお医者さんだったけど、だんだん医者をするのがあほらしくなったんでしょう。患者が病気をして医者がそれを治療するというんじゃつまらないじゃないか。やはり医学というのは、患者が自分で自分をいろいろ工夫して治せるという部分を広げていかないとしょうがないじゃないかというようなことをお考えになった。

 

そしてあるとき、患者が自分でもできる治療法というのを探すために自分の診療所を閉めて、一生懸命に研究された。最後は、花のエキスというか、フラワーの波動を使うということに到達された。それでお金がなくなって、しんだときは貧乏だったらしいです。そういう人がいるんです。それで、38種類の花のエキスを使ってする治療法を考えられました。これはほとんど精神的な内容です。バッチ先生は何を考えたかというと、ほとんどの病気は心身症であると。あるいは、病気が治らなくなっているのは心身症である。だから、花によってその人の精神的なムード、霊的な世界を癒せば、それで自然治癒が急速に進んで、すべての病気が良くなると考えて方法をつくられたんです。

 

インターネットをなさる方は、「バッチ」の「フラワーレメディ」というので検索されますと、日本中にいっぱい店があります。アメリカではドラッグストアとかそういう所にも置いているらしいですけど。それをやってみられたらいいです。僕はいろんなものを探してこれに出会ったときはうれしかった。なぜかというと、その中に、「スター・オブ・ベツレヘム」というレメディがあるんです。これが面白い。これは花の名前です。これはバッチ先生が名前をつけたわけじゃない。バッチ先生が花を探しているときにそういう花があったわけ。おそらくキリストの誕生のときに賢人を誘導した星が「スター・オブ・ベツレヘム」じゃないかと思うのですが、その名前をつけられている花で、写真で見たらまっ白い五弁のきれいな花です。

 

この「スター・オブ・ベツレヘム」の適応にどういうことが書いてあるかというと、「過去にショックを受けたり、何かつらい目に遭ったりして、それを引きずっている人」というのがあるんです。これはもう、ぴったりじゃないですか。

 

 

それで気がついたのは、「スター・オブ・ベツレヘム」を使っても外傷体験自体はきれいに過去のものにはならないということです。ただ、外傷体験を思い出したときの迫力、思い出したときの本人の心が揺れる程度が軽くなるんです。軽くなるから、その問題を話し合える。話し合うのがしやすくなる。「どうですか、時々やっぱり思いだす?」「思い出した時はどんな?」というようなことは、5分の診療の間でもできます。それが本人を揺さぶって、またリストカットになったりするようなことが減ってきます。このバッチフラワーは病的な構造を処理しているわけではなくて、病的な構造の中に大量に備給されている精神的なエネルギーというか、別のことばでいえば、スタンスのゆがみが修正されていくので、そういう外傷体験とか恐れとかいろいろなものがあっても、そこにばかりに固執したような意識のスタンスでなくなるということであろうと思います。それはどうでもいいのです。治療として使うととても有効です。

 

そして、ここにもまた大事なことがあると思います。初めは僕が教えてあげるけれども、「バッチフラワーを勉強してください」と本人にいうんです。バッチ先生は「患者が自分で自分の治療をできるようにしょう」ということでこれを発明されたんです。これは試しても害はないから、いろんな本があるので本で勉強して自分で試してみて、バッチフラワーの38の中から自分用のものを選んでいろいろなときに使うようにしなさいと。勉強させる。

 

 

PTSDというものはほとんどパッシブな体験であり、そのとき、自分がその状況をまったくコントロールできなかったという体験です。だから、無力です。そしてその無力感というものが生活の中に瀰漫して、無気力であり、すぐにギブアップしてしまって手を切る。少し、「何くそ!」という人は根性焼きをしたり。根性焼きというのは前向きですね。「よし!」といってやる。無力から有力へと。だけど、自分でコントロールする方法を少しずつ少しずつ築き上げていこうとするスタンスは、生活の中から無力感をだんだん減らしていくという精神療法になるわけです。

 

 

境毅さんへの応答 論理的関係と倫理的関係・ブーバーの我となんじ・鶴見俊輔のサークルの研究・「時間」について

境毅さんは、このブログでも何回も言及させていただきました。

 

ミヒャエル・エンデの『モモ』において、大島かおり訳では、時間とは生活であると訳されているのですが、境毅さんは時間とは「いのち」であると指摘され、その指摘は僕が熱心に読んでいた里見実の『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』で言及されていたのです。

 

僕はたまたま大阪高槻市で行われている「読む!倶楽部」の読書会に参加していたときに境さんとお会いしたのですが、まさかそのときにもらった名刺の境毅さんと里見実が言及する境毅さんが同じ人であったとは、ととても驚きました。

 

境毅さんとは縁があって、その後も「お金の絵本プロジェクト」などの研究会で一緒させていただいています。6月15日にちいさな学校鞍馬口で開催する私の探究・研究相談室の発表会にも来ていただく予定です。

 

さて、先日山口純さんへの応答をブログに転載させてもらいましたが、境毅さんへの応答も転載させてもらいます。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

境さんから教えてもらったことはたくさんあります。時間が「いのち」であること(僕はいのちをプロセスとよく表現しています。)、鶴見俊輔のサークルの研究の存在、論理的関係と倫理的関係(言語を通してされる認識は、ブーバーのいうところの「我ーそれ」関係であり、一方言語を介する以前の関わりとは、主体と相手に従属関係はなく、むしろ主体が相手によって変えられてしまう関係であり、それが本来の関係である「我ーなんじ」関係が倫理的関係であるという捉え方。)などの考えは境さんからいただいています。

 

 

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境さんへ

 

僕は境さんの思考からとても沢山のものをいただいています。
境さんがテーマにされているのが「お金」で、僕のほうテーマは「人がどう救われるか」なのかな?と思っています。

 

なので、もしかしたら僕が境さんのお話に大きく反応する部分が、境さんにとっては「そこか?」みたいに感じられるかもしれませんが、在野研究やジャンル難民の集まり的にはお互いのそういうことがいいところであるのかなと思っています。

 

カフェコモンズでやっている「時間」論も、実は僕的には境さんの「時間とはいのちである」というところをやっているつもりですし、論理的関係と倫理的関係については、僕は革命的な見方をもらったなと思っていて、その後もずっと考えています。

 

僕が勝手に受け取ったものと、境さんご自身が考えている定義は違うかもしれませんが、ぜひ「誤解」を楽しんで(許して?)いただけたらと思っています。

 

時間のワークショップは、昨今の中動態の考えを取り入れており、意思や意識的操作で物事をあつかおうとすること自体に閉塞があり、停滞があると考えています。
薬物依存症者が自力で頑張って克服することを諦めたときに回復がはじまるという話しがあります。

 

意思や意識的操作は、むしろその人のなかで動き出そうとしているプロセスを止め、その人を過去の否定的習慣に引き戻す結果を生むようです。

 

自力の放棄とは、投げやりになることでも放置することでもなく、自分のなかに既にあるプロセス、動きだそうとしているちいさなプロセスに応答へ移行していくことです。

 

その動いているプロセスのことを鉤括弧をつけて「時間」と書いています。なぜこういうふうにするかというと、時計ができる前は、太陽や月、潮の満ち引き、生物や無生物の変化のプロセス自体が時間であり、それが本来の(いのちとしての)時間だったと考えているからです。

 

 

一方で、時計の1秒それ自体には何の変化のプロセスもありません。本来はプロセスは一過性のものであり、季節や生きものの営みなどは繰り返しのように見えて、実は全ては遷移しているのですが、時計のなかでは物事は一過性でなく、永遠の繰り返しであり、概念のなかに完全に閉じ込められてもいます。

 

 

時計ができた以後の時間を意識するとき、人は緊張し、概念に閉じ込められた世界のなかで自らの変化のプロセスに応答できる状態を失ってしまいます。時間を忘れるとき、むしろその人の内のプロセスは動いています。

 

鉤括弧つきの「時間」とは、時計ができる前の、実際の変化プロセスを持った時間のことです。

 

本来はそのプロセスが本質であったのに、今は本質が奪われた、実態を伴わないただの概念としての時間が時間と呼ばれています。

 

いわば時間というこの言葉は、本物が偽物に奪われて、偽物が自らを時間だというのをみんなが認めてしまったような、おかしなことになっています。

 

時間が意識されないときにプロセスとしての「時間」は動き出し、時間が意識されだすとプロセスとしての「時間」は止まっていくという、まさに不倶戴天の関係、相反する関係です。

 

 

そして論理的関係と倫理的関係をこの話しに加えるなら、世界を言語によって認識することや切り離すことは、世界を「我ーそれ」関係として、コントロールするものとされるものに分けることであり、同時に「時間」を止めることとなると思います。

 

一方で対象と実際にかかわり、固定された「我ーそれ」関係が脇におかれた状態にはいることで、プロセスは動きだしていきます。

 

それが「我ーなんじ」倫理的関係にはいることといえるのではないかと思います。

 

話しは少しずれますが、言語を通した世界は論理的関係に置いて認識されるということは、たとえば人が看取りを求めるということにも関わっているのではと思います。
自分という存在もまた、言語を介して認識するなら、「我ーそれ」関係としてしか認識できず、よって「誰かにとって意味がある自分」を希求してしまうしか自分を認めるあり方がないのです。

 

もしかしたら、死によって意味がなくなっていく自分に誰かがついてくれるということは、誰かを従えているということであって、論理的関係においてしか認識できない哀しい自分の価値を最後に高めるということなのかもしれないなと思います。人が何かを自分のために犠牲にするというあり方でしか、論理的関係においては自分の価値を確認する方法がないのです。

 

長々と失礼しましたが、こう考えると人の思考がどうなっているのかが納得できるように思って、色々事例とこの考えを照応しています。

 

 

論理的関係と倫理的関係、鶴見俊輔のサークルの研究、いのちとしての時間などは過去のブログでも書かせてもらっています。↓

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

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 境さんが紹介されていた里見実の『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

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モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

「環境」ではなく躍動性に対する応答としての倫理を

環境とは、自分を除いた周りのことなのだと思います。ところが自分というのは関係性なので、自分を除いた世界という時点で、この言葉を用いた問いはおかしくなります。

 

自分は環境に対して、外からの働きかけ手ということになります。人間がいなければ環境は健全だという思考になるのは、環境という言葉を批判なく受け入れた時点で必然です。あらかじめ含まれている前提が結論になるのです。

 

日本の原発の話しもそうですが、第二次世界大戦で毒ガスが使われ、何百年も人が住めなくなった地域があるそうです。

 

「環境問題」を考えるとき、自分が持っている潜在的な資源が減る、利用できなくなる、そんな世界はいやだ、そんなところで生きていたくないという動機があります。

 

当然の気持ちだろうと思います。でもその動機だけではだめなのは、既にその最低限のことさえ奪われた人たちがいるということです。既に完治しない被害を受けた人たちがいます。そうなりたくないね、という思考は、そのつもりがなくても、その人たちを受け止めることもスルーする思考です。

 

イリイチは、生命という概念が近代において本来の躍動性(aliveness)から所有する生命(a life)へと変化したことを指摘します。躍動性は異なるお互いが与え合って高まるものです。一方、所有する生命という思考は、そのような与え合いではなく、独立して存在する生命です。関係性としての生命ではなく、関係性以前に存在する生命観です。

 

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関係性が本質なのに、関係性は無視され、個々の閉じた「生命」が本質とされる生命観への移行。そこに傲慢と無責任が生まれるのも当然でしょう。生命を個体に属するものと考えるところでは、世界に対する責任は放棄されます。生命を数えられるものとするのもイリイチ的な観点からは非倫理的でしょう。

 

躍動性に生命の本質をみるとき、見捨てられる人は少なくなると思います。自分だけで幸せを高められるという嘘が破綻するからです。躍動性は常に他者を必要とし、躍動性の高い世界を必要とします。閉じた牢獄のような、自分の部屋だけを充実させていけば幸せになるという嘘はそこでは成り立ちません。

 

世界の躍動性に責任をもつということが、倫理なのであると僕は思います。ですので、僕は「環境問題」というものは、実際には倫理の問題であると思います。世界の躍動性に責任をもつということが取り戻される必要があるのだと思うのです。

時間に奪われた「時間」 私の探究・研究相談室発表原稿

◆「時間」とは?

この鉤括弧つきの「時間」は、一般的に使われる時間という言葉に鉤括弧をつけることで、別の意味として使っています。鉤括弧のついていない、一般的な意味での時間という言葉には「時間に追われる」、「時間を気にして」などというふうにタイムリミットのような忙しいイメージがついてこないでしょうか。時間、時間、時間、と続けて発音してみると、焦っているような感じがしますよね。

 

「時間を忘れる」というときは、とても何かに集中しているときです。そういう状態になっているあいだは、自分がやりたいからやっているのであり、精神的には悪くなさそうですが、はっと気づくと締め切りがあったとか、「やらなければいけないこと」があったのに忘れていたということもあるようです。そういう時は、何かと比べることを自体を忘れています。

 

この無心になるようなとき、夢中になるようなとき、時間や他のことを忘れてしまうようなときと、鉤括弧つきの「時間」は関係しています。外の時間を忘れているとき、動いている自分の内の「時間」があります。この鉤括弧つきの「時間」とはどういうものでしょうか。

 

時計がなかったころを想像してみます。そのころ、時間とは太陽や月の動き、潮の満ち引き、植物や動物など生きもの、そして生きていないものが変化していくことだったのではないかと思います。小さく生えてきた植物にいつしか蕾がついて花が咲くという「変化のプロセス」が時間だったのではないかと思います。

 

花には花の、太陽には太陽の、月には月の、海には海の変化のプロセスがありました。つまり、それぞれがそれぞれに固有であり、自律的である「時間」をもっていたのだと思います。

 

時計ができて、地球が太陽の周りを一周する一区切りが絶対的な基準になり、それまでそれぞれのものにあったそのもの固有の時間、自律的な時間はなくなってしまいました。確かに秒針が動く1秒のあいだに、世界では色々なものが変化するでしょう。しかし1秒という時間自体には何の変化のプロセスも伴っていないのです。

 

時計がなかったころ、蕾が花になるまでそこには絶え間ない実際の変化のプロセスが伴っています。時計がなかったころの時間には、常にそこに実際の変化のプロセスが伴っていたのです。ところが、時計ができたあとの時間では、時間それ自体には何の変化のプロセスもありません。これはつまり、時間が実際の変化のプロセスであった本質を奪われて、実体を伴わない概念に取り替えられてしまったということでもあると思います。

 

変化のプロセスという本質を抜きにしてしまうと、時間は人間を管理するものになります。あと何時間であれをやらなければいけない、何日後にこれをやることが決まっているといったように。変化のプロセスとは、生きているものそのものなのですが、時間が管理できるのは死んだものであり、思いのままに従うものです。

 

ですが、もちろん人が死んだものになっているとき、その人はその人自身を生きていたりはしません。自然な変化のプロセスを優先せず、直接に管理操作できるもの(つまり死んだもの)で生きることを覆っていくと、人は本来の変化のプロセスを止められたまま、つまり「時間」を止められたままになってしまいます。

 

『モモ』という児童文学があります。主人公の女の子モモは、人の話しを聞くことが上手で、話しを聞いてもらった人は、自分の困りごとが自然に解決したりします。そのモモがすむ場所に時間泥棒という人たちがやってきました。彼らは人々に無駄なことに使う時間を「節約」して、お金になる有意義なことをしようと説きます。そして節約した時間を自分たちの銀行に預けてもらうのです。
 
ところが人々は時間を「節約」したほうが忙しくなってきます。心の余裕がなくなり、縛られ、以前よりもっと強迫的になっていきます。人々は時間を節約してためていたたつもりが、実は奪われていたのです。何を奪われていたのでしょうか。それこそ鉤括弧つきの「時間」なのです。人それぞれにある固有の変化のプロセス、固有の自律的なプロセスは、それが自然に動く環境を与えられないと動かないのです。

 

人々はお金(時間)として蓄積できるものが一番確かであり、それを貯めることが有意義なことだと勘違いしてしまいました。皆が一律の行動をするようになってしまいました。しかし、そうではないのです。モモにはモモに必要な時の過ごし方があり、ベッポじいさんにはベッポじいさんに必要な時の過ごし方があるのです。その過ごし方を抜きにして、その人が生きるということはないのです。

 

「過ごす」とは、あるプロセスを自分にもたらすことが含まれています。それぞれに必要なプロセスを呼び起こす環境を得て、そしておこったプロセスに応答していくことを抜きには、人は自分に必要な変化をおこしていくことができないのです。

 

僕は鉤括弧のない時間という言葉自体が時間泥棒であるかのように感じています。時間の忘れ方を知ること、それはつまりお金のように蓄積していく確実さ(往々にしてそれが普通は「有意義なこと」と言われますが。)だけで生きることを覆ってしまわないあり方を取り戻していくことではないかと思っています。

 

鉤括弧のない時間とは止まった時間であり、鉤括弧のある「時間」とは生きている「時間」、動いているプロセスそのものです。自分が既に知っていること、やれることで生きていることを管理しつくそう、コントロールしつくそうとするとき、その人の「時間」は止まっています。逆に「時間」が動いていくとそのような強迫はだんだんと弱くなっていきます。


◆「時間」についての研究の進展
 「時間」とは、概念のように実際には存在しないものではなく、実際に存在し、種がやがて種自らを作り出すように、自律的な展開の完成形を内在し、かつ自分自身で動き、展開していく力をもっている変化のプロセスです。それは実際に存在するので、その影響は周りの人にも伝わり、周りの人のそのプロセスと同調、共鳴、活性化するようです。ウィトゲンシュタインは、無時間性という言葉で次のように述べています。

 

 死は人生のできごとではない。人は死を体験しない。永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない。 -ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考

 


鉤括弧つきの「時間」は時間という言葉に奪われ、入れ替わられた本来のものを表現するために使っていますが、無時間性という言葉を使うのもわかりやすいかなと思っています。

『ヨコハマ買い出し紀行』買い出し紀行

デイサービス事業をはじめられたNPOさんのお話しを聞きに宇治へ。

 

行く途中の地下鉄で前に買った『こどものてつがく』を読む。クリシュナムルティが言及されていたので興味を持って買った本だったが、該当箇所を読んだだけになっていた。しかし、ふと気づくと林竹二についても言及されていたので、その林竹二の章を読んだ。

 

その章を書いた著者も震災後に林竹二を知ったそうで、実践で到達されたことがやはり残らず消えていくのだなあとあらためて思った。実践する人は過去のことをおさえてやっていると思われるけれど、いわば流行りものみたいなもののようだ。

 

先人が到達したことが受け継がれず、忘れられ、またゼロから問題が提起され、新しい流行やメソッドが生まれ、また消えていく。実践における賽の河原現象と僕は呼んでいる。

 

近鉄小倉駅で降りる。学部時代の大学はこの近くだったので懐かしい街の景色だった。知った場所にくるというのは、記憶のなかに入るということだと思う。思い出は追放されることのない唯一の場所である的なことを言ったのは誰だったか。

 

久しぶりの場所が、さして変わらずむかえてくれたという感じか。消えてかすれていく記憶が目の前の景色でもう一度鮮明さを復活させる。鮮やかさが精神に必要なのは、自意識がいつも古びていくからだろうかと思う。

 

思ったより用事がはやく終わったので、ブックオフに行く。閉店した鞍馬口ブックオフとは違って、ここのブックオフは残っていた。芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』があるかどうかをチェックする。百円のコーナーに結構あったので買う。

 

ヨコハマ買い出し紀行』全14巻を行った先のブックオフなどで安く買って、揃ったらどこかか誰かにあげるということをしている。『ヨコハマ買い出し紀行』買い出し紀行だ。ヨコハマ買い出し紀行は、僕の世界観の基軸にある。

 

 

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ヨコハマ買い出し紀行は、人がよく行って回転率が高そうなブックオフにはあまりない。あるいはそういうところでは処分されてしまうのだろうか? ともあれ小倉とか、そういう郊外のブックオフにヨコハマは「溜まっている」という感じだ。

 

小倉から4キロ弱離れたところに大久保のブックオフがある。時間があったので、69号線を南に歩いて大久保駅まで行く。馴染んだ69号線も小倉以南に行くことはほとんどなく、風景は新鮮だ。そうか、こういうふうになっていたのかと思う。

 

小倉駅大久保駅の間には伊勢田駅もあるのだけれど気づかず、まっすぐ歩いているうちに大久保駅に着いた。トイレに行きたくなったので喫茶店に入ったが、入ってみるとトイレはパチンコ店と共通のもので、別に喫茶店に入る必要はなかった。ミックスジュースを頼んだ。

 

殻について書きたくなり、喫茶店スマホで書いて、ブックオフ大久保店に向かう。大久保店は駅から西の方向にある。大久保は自衛隊の基地などもあるところだけれど、高い建物がほとんどなく、平らなところだ。空き地のようなところも広大で、草原のようになっている。

 

この平らな風景が新鮮に感じる。いつもごちゃっとした、空の狭い場所にいるからか。ブックオフまでの道はまっすぐで長かった。この地域、ここまで区画整理がされているのは自衛隊の基地があるからなのか。一つの区画の空間が広くて、ここを歩いていると人間の存在が小さく感じる。

 

途中に任天堂とかがある。17時がすぎていて、道路の向かいの歩道は駅へ向かう人たちが東へ向かっている。それがあまり見ない景色だなと思ったのは、道が細いため、それぞれ別々の人たちなのに同じ方向に一列で歩いていて、同じグループのような錯覚を受けたからだろうか。

 

30分弱をかけて着いた大久保のブックオフにはヨコハマは一冊もなかった。ここは「普通」のブックオフだ、と思った。ちらっと児童書のコーナーをみようとしたが、ちょうど店員の人が整理をしていたので通り過ぎた。

 

セカンドストリートという古着も扱っている店が途中にあったので、帰り道はそこに寄る。あまり欲しいのがなかった。

 

大久保駅について電車を待つが、大久保駅は高台のように見晴らしのいい駅だなと思った。遠くに少し高いマンションが見えるが、そこまでは平坦で風景は寂しく、旅しているときのあてどない感じが感じられる。この時間で近鉄で帰ると、太陽が西に沈むのが見える。

 

夜中に母親から電話がかかる。親戚が京都にくるということ。そして僕がやっている畑の野菜は売っているのかと訊かれたそう。野菜は自給だから売っていない。

 

売りだしたらどれだけ苦労になることか。夜勤に行けば一晩で2万弱にはなる。週に1、2回行けば生活はまわる。それを野菜で稼ぐとしよう。2万稼ぐのにどれだけの野菜を売らなければならないのか。どれぐらいの時間がかかるのか。

 

200円にした野菜を100セット売ることにかかる労力を種を用意し、作るところから計算すると、それがどれだけ馬鹿げたことなのかがよくわかると思うのだけれど、一般の人は想像しない。売らないのかと繰り返し質問される。

 

営利目的の採算は、ある程度大規模にやらないととれない。小規模の畑をやっている人が、無人販売所で野菜を売っているのは、あげているのと同じなのであって、あげているつもりでないと、割など絶対にあわない。

 

買うほうはスーパーの値段が野菜の妥当な価格だと思っているけれど、小規模で畑をやっている人が、そんな小銭で、しかも上から高い安いかとか値踏みされながら売る馬鹿馬鹿しさを想像する人が少ない。自給規模の場合は、野菜は余ったらあげる(もしくはあげるつもりで出す)の一択だと思う。

 

お馴染みの質問でげんなりしたけれど、平和な話題だなと思った。父も母も80前後で二人暮らし。なにが起こるかわからない。電話のたびに何かがおこったのではないかと思う。いずれ何かがくるのを想像して、落ち着かない。

 

 

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

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殻と変容について

殻と変容について。

 

殻はそれ自体がある程度の自己保存しようとする傾向がある人間のOSで、過去からできている、と思う。

 

殻は同じことを繰り返す機械的なものであるけれど、もちろん大なり小なり殻の力を借りないと環境で生き延びていくことが困難になる。

 

一方で殻は現在の状態の繰り返しを続けようとするものであるので、環境や状況に大きな変化があった場合、殻の自己保存傾向がむしろ変化を阻害し、新しく生きることを困難にする。

 

また殻はおそらく防衛反応として生まれているものなので、根本的な恐怖や不安を抱えていてもそれを抑圧したり、無視したり、感じなくしたりすることで、無理矢理乗り切ろうとする。

 

殻は他者に共感したり、響きを受け取ることとは逆のベクトルをもつ。殻を厚くすることは、人をより機械化させ、鈍感にする。

 

自分の実感では、この殻はそう簡単には変わらない。病気になったり、事故にあったり、今までの生き方、考え方まるで成り立たなくなるようなことがあって、はじめて壊れる。

 

殻は自分と一体化しているので、殻が壊れるダメージは大きいけれど、その代償を払わないと一度できた殻はほぼ変わらない。それぐらい強固なもの。

 

殻が人をどれぐらい決定するかと思う。

 

たとえば「創造の病」なんてものも変わるために身体と一体化した殻を壊すために必要なもので、その人の能力とみなされるようなものさえも殻が決めているのではないかとも思う。

 

殻はぼやっとした曖昧なものではなく、かなり細かく具体的に構造化されている物理的なものではないかと思う。

 

殻の強固さにせめぎあえるものは、自分を無感覚にし、痛みを逸らそうとしてくれるこの殻をもってしてもなお痛みや苦しみから逃れられないという状態だと思う。

 

殻の強固さ、そして殻が壊れるというタイミングを考慮にいれないと変化の理屈はあまり実際的なものにならないと思う。

 

人を変化させようという話しで、あたかも人が買ったばかりの粘土か何かのように語られることも多いように思うけれど、人は買ったばかりの粘土ではない。

 

そしてこのタイミングというのはほぼ殻である自分の自助努力よりも状況依存的なものであり、ある環境に放り込まれるということが決定的な要因になると思う。

 

たぶん、人間や社会の大きな変化に希望を持ちたいと思うなら、ある人がどう言っていてどう考えていたとしても、既に生きることが今までの繰り返しで成り立っていて変わる必要のあまりない人を相手にするのではなく、強い抑圧化にある人、既に苦しみや痛みに直面しており、変わらざるをえない人とやりとりすることが必要だと思う。

 

もちろんそのことは自分の殻を壊す危険性をはらんでいる。

 

しかし自分の殻が壊れていかないなら、世界を深く新しく感じていくことはできず、生きていくことは過去に固められ、より色あせていくメリーゴーランドに乗っているようなものになり、より強い刺激と快楽以外は楽しみにできることがなくなるのだろうと思う。