降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

神田橋條治さんの話しから思うこと

精神科医の神田橋さんの『発想の航路2』を何年も前に読み、だいぶ面白かった記憶がある。

 

先週の私の探究・研究室に来られていた山口純さんに神田橋さんの『心身養生のコツ』を紹介してもらったので、またちょっとその周辺をながめていると、神田橋さんの講演を記録されているブログがあった。

 

shinagawa-lunch.blog.so-net.ne.jp

 

神田橋さんの話しを読んでいると思うこと。

 

記憶という止まった時間、繰り返し同じ反応がおこることを人間は抱えている。

 

止まった時間に対しては、言語がアプローチできるものもあれば、連動するイメージやリアリティそのものを利用する方法がある。

 

言語を介して認識していること、そうして生きていることは、当たり前のことのようにも思われるけれど、実はそれ自体でかなり心身を弱らされているのではということ。
中島敦悟浄出世』では沙悟浄は言葉を用いるがために病気になっている。)

 

言語によって認識するということは、止まった時間としての世界を受け入れるということであり、それは言葉と一体化している象徴が心身に直接影響を与えるということでは。(エレンベルガー『無意識の発見』では、ある民族の間では致死性の毒とされているが実際には無毒なものを少年が食べて死んでしまうという事例が紹介されている。)

 

心身に直接影響与える象徴と結びついている言語のない状態であることを体験することと、同じ体験であっても言語を通して「現実」だというリアリティに直面させられることとでは、後者の方がダメージが大きい。

 

例えば「病気になった」「怪我をした」という言語を介した認識自体によって、「本当にそうなのだ」(「本当」ではあるのだけど。)と脳が錯覚して、「病気」や「怪我」という象徴に自分というものが釘付けされることによる、二次的に受ける影響はかなり大きいのではないか、と。

 

本当かどうか知らないけれど、想像妊娠においては「予定日」に陣痛がきたり、お腹が大きくなるとか、女性パートナーの妊娠で男性が想像妊娠になり、つわりのような症状になるとか、男性の場合はそれらがパートナーの出産と同時に消失するとか。

 

doctors-me.com

 

そういうようなことがあるのならば、言語を介してある状態を「本当だ」と思うことは、本人の意識とは別に、実際に持続的な擬似状態(しかし体には十分ダメージを与える)に人を釘づけてしまう。

 

また男性の想像妊娠の症状は、神田橋さんが『発想の航路2』で言及していたことを思い出させる。ある症状において、治療者に患者の症状が伝染して、一時的に一種同様な状態になることがあるが、それをもって治療の進展とみなすことができると神田橋さんは指摘していた。

 

それは、石牟礼道子さんが水俣病患者の苦しみに対して何もできなくても、共に自分のことのように苦しむことを「悶え加勢」と呼び、評価することにも通じるように思う。石牟礼さんは悶え加勢によって苦しむ人は少し楽になるのだ、という。

 

www.soshisha.org

 

そう考えると、男性の想像妊娠は実際にある程度を本人の苦しみを肩がわっているのではないかと思う。(自分の苦しみを別の相手にも味わそう(すると自分は少し楽になる。)というのは世間一般にみられる人の行動であり、共有されている感覚でもあるだろうから、別に何の不思議もないとも思えるけれど。)

 

ある人の状態が別の人に伝染すること、そのことによって苦しみが分けられ、あるいは喜びが高まるということがある。これはイリイチが、近代以前において、生の本質はお互いが影響を与えあう躍動性(aliveness)にあったというところに通じると思う。

 

さて言葉による影響を打ち消すような、怪我に対して行う慣習があると聞いた。刃物で傷ついた場合、自分ではなく、刃物のほうに軟膏を塗るというようなことが行われていたらしい。これは、刃物という認識が結びついている象徴(害を与えるもの)に軟膏という治すものの象徴を上から被せることによって、混乱させ、言葉による二次的なダメージを打ち消すことを意図しているのではないかなと想像する。

 

日本でもどこかに頭をぶつけたら、その同じ場所にもう一度そっと同じぶつけた体の箇所をあてるということをしていたところがあるとか。こちらのほうは、体験の上書きといった対処のように思える。

 

言葉による合理的思考、「現実」認識ということ自体がニュートラルなものではなくて、大きな弊害を伴うものであるとき、その弊害を打ち消すわざのようなものも体験的に生み出されていたのだろうなと思う。

 

あと、自分のコントロールの感覚を高めていくための技法で、フラワーレメディという、世間でいうところの疑似科学、疑似医療なのだけど、そのやり方が効果的という事例も紹介されてて面白かった。まあいってみるならばイメージ療法というか、そういうものに属するのだと思う。

 

もう1つ、話しておきます。これはオカルト的ではないけれども、あまり皆さんは好かないかもしれない。バッチフラワーというのがある。バッチフラワーを知っている人は変な精神科医なんです。心療内科の先生方はよくご存じです。エドワード・バッチという人が英国にいて、僕が生まれる1年前に死んだので古い人です。この人は、イギリスでやたらはやって金持ちになったお医者さんだったけど、だんだん医者をするのがあほらしくなったんでしょう。患者が病気をして医者がそれを治療するというんじゃつまらないじゃないか。やはり医学というのは、患者が自分で自分をいろいろ工夫して治せるという部分を広げていかないとしょうがないじゃないかというようなことをお考えになった。

 

そしてあるとき、患者が自分でもできる治療法というのを探すために自分の診療所を閉めて、一生懸命に研究された。最後は、花のエキスというか、フラワーの波動を使うということに到達された。それでお金がなくなって、しんだときは貧乏だったらしいです。そういう人がいるんです。それで、38種類の花のエキスを使ってする治療法を考えられました。これはほとんど精神的な内容です。バッチ先生は何を考えたかというと、ほとんどの病気は心身症であると。あるいは、病気が治らなくなっているのは心身症である。だから、花によってその人の精神的なムード、霊的な世界を癒せば、それで自然治癒が急速に進んで、すべての病気が良くなると考えて方法をつくられたんです。

 

インターネットをなさる方は、「バッチ」の「フラワーレメディ」というので検索されますと、日本中にいっぱい店があります。アメリカではドラッグストアとかそういう所にも置いているらしいですけど。それをやってみられたらいいです。僕はいろんなものを探してこれに出会ったときはうれしかった。なぜかというと、その中に、「スター・オブ・ベツレヘム」というレメディがあるんです。これが面白い。これは花の名前です。これはバッチ先生が名前をつけたわけじゃない。バッチ先生が花を探しているときにそういう花があったわけ。おそらくキリストの誕生のときに賢人を誘導した星が「スター・オブ・ベツレヘム」じゃないかと思うのですが、その名前をつけられている花で、写真で見たらまっ白い五弁のきれいな花です。

 

この「スター・オブ・ベツレヘム」の適応にどういうことが書いてあるかというと、「過去にショックを受けたり、何かつらい目に遭ったりして、それを引きずっている人」というのがあるんです。これはもう、ぴったりじゃないですか。

 

 

それで気がついたのは、「スター・オブ・ベツレヘム」を使っても外傷体験自体はきれいに過去のものにはならないということです。ただ、外傷体験を思い出したときの迫力、思い出したときの本人の心が揺れる程度が軽くなるんです。軽くなるから、その問題を話し合える。話し合うのがしやすくなる。「どうですか、時々やっぱり思いだす?」「思い出した時はどんな?」というようなことは、5分の診療の間でもできます。それが本人を揺さぶって、またリストカットになったりするようなことが減ってきます。このバッチフラワーは病的な構造を処理しているわけではなくて、病的な構造の中に大量に備給されている精神的なエネルギーというか、別のことばでいえば、スタンスのゆがみが修正されていくので、そういう外傷体験とか恐れとかいろいろなものがあっても、そこにばかりに固執したような意識のスタンスでなくなるということであろうと思います。それはどうでもいいのです。治療として使うととても有効です。

 

そして、ここにもまた大事なことがあると思います。初めは僕が教えてあげるけれども、「バッチフラワーを勉強してください」と本人にいうんです。バッチ先生は「患者が自分で自分の治療をできるようにしょう」ということでこれを発明されたんです。これは試しても害はないから、いろんな本があるので本で勉強して自分で試してみて、バッチフラワーの38の中から自分用のものを選んでいろいろなときに使うようにしなさいと。勉強させる。

 

 

PTSDというものはほとんどパッシブな体験であり、そのとき、自分がその状況をまったくコントロールできなかったという体験です。だから、無力です。そしてその無力感というものが生活の中に瀰漫して、無気力であり、すぐにギブアップしてしまって手を切る。少し、「何くそ!」という人は根性焼きをしたり。根性焼きというのは前向きですね。「よし!」といってやる。無力から有力へと。だけど、自分でコントロールする方法を少しずつ少しずつ築き上げていこうとするスタンスは、生活の中から無力感をだんだん減らしていくという精神療法になるわけです。