降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』 フェミニズムの歴史に感じる「当事者研究」の既視感

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』。1、2章あたりからもう既視感にみちている。現社会環境のシステムそのものが変わらなければならないとするマイノリティのラディカルな立場は、部分的な改良で良しとする白人中産階級などマイノリティ内マジョリティの立場に乗っ取られていく。

 

www.bookcellar.jp

 

『階級とフェミニズム』のダイアナ・プレスの批判は「女性は、他の女性を支配し搾取しているあり方ーセクシュアリティや階級や人種を通してーと対決する闘いによってのみ「シスター」になりうる」というもの。

 

内面化された性差別に向き合うこと抜きに、そして自分だけでなく他の女性の抑圧と対決する闘いを抜きに、「シスター」になることはできない。しかし実際には運動に参加して利益だけを奪って抑圧者側になるものが運動の力を奪っていく。

 

人種差別という現実があるなかで、白人中心社会を維持したい白人男性が白人女性の平等を熱心に認めはじめるのは自然な流れ。職場での男女平等を最優先する改良主義フェミニストはラディカルな理想を押しのけてしまった。

 

「経済的に恵まれた白人女性たちは、現在の社会構造のなかで経済力を手にするやいなや、革命的なヴィジョンについて考えることすらやめてしまった。」
「皮肉なことに、革命的なフェミニズムのヴィジョンがもっとも受け入れられ、取り上げられたのは、大学などアカデミックな世界でだった。」

 

フェミニズムの本来的な理念は、インテリで高等教育を受け、物質的にも恵まれた人たちに受け継がれ、「そうした理論が一般大衆に届くことはほとんどなかった。」人々は、進歩的なヴィジョンから紡ぎ出されたメッセージを拒絶するのではなく、そもそもそれがどんなものであるかを知らない。

 

アカデミア外の人たちの場では、ラディカルなフェミニズムの理念は、自分たちの状況さえ良くなれば事足れりとする改良主義に乗っ取られる。自分たちだけよければいい偽りのフェミニズム。相対的なマジョリティがマイノリティの運動の名実を奪っていく。アカデミアは外の人たちとは乖離している。

 

女性たちが痛みを打ち明け、制度化された性差別に気づき、その横暴に立ち向かう力を得る場所、会話と対話の場としてコンシャスネス・レイジングがあった。それらは大抵は誰かの家で開かれた。フェミニズムの思想は、当初は職場の同僚や友達のような小さなグループのなかで伝えられた。

 

ところがそれが「印刷された理論となってより多くの人の目や耳に届くようになった。そうなると小さなグループは解体していった。女性学が正規の学問として認められるようになると、フェミニズムの考え方や理論について知る別の場ができるようになった。」

 

個人的にここらへんが問題の肝のところだと思う。人格のある人と人のやりとりしてあった運動が、人と人を離れた理論になっていくところ。大衆を一斉に教育したり啓発すればいいと考えるとこうなることは止められない。生きものとしての人が取り除かれ、相手するのが紙や純粋な理論。

 

どんな理念であれ、大衆管理とか大衆啓蒙とか人を一括りにして一斉に扱おうとすることが根本的な間違いであると思う。それは実際的には効率的でもなんでもない。人が変わるのに必要な経験が奪われてしまうのだ。

 

具体的な人間同士の営みが取り戻されなければいけない。頭だけで人は変わると当時は思われていたのだろう。身体性の無視。そのために用意された場所ではなく、ゲリラ的なちいさな集まりに戻る。非効率な、人と人の直接的なやりとりに戻る。

 

アカデミアの理論なりは、ちいさな集まり、個々の変革の場がアカデミア外の人に取り戻されて、はじめて届いていくだろう。

 

さて、女性学が大学で確立するとコンシャスネス・レイジングも大学の教室で行われるようになった。かつては「専業主婦」や「サービス業の女性」や「バリバリのキャリアウーマン」も入り混じっていたが、大学は階級的特権をもつ者だけの集まりになった。

 

マスコミは多様な人たちのなかから「中産階級の女性たち」をピックアップして報道し、彼女たちがフェミニズムを代表する者として祭りあげられた。また相対的マジョリティによる運動の乗っ取りだ。それがマスコミ含め社会全体からなされていく。

 

女性学は正規の学問として確立されたが、その代償として女性学確立の先鞭をつけた女性たちは失職した。彼女たちは大学院に入り直すものもいたが、そうしない者もいた。

 

「大学に一片の幻想も持っていなかったうえに」女性学を支えていたラディカルな思想が改良主義的なリベラリズムに取ってかわられてしまったことに不満を持ち、怒ってもいたからだ。

 

マジョリティの制度にのる際に、思想は薄められ、マジョリティのものにスライドされていく。女性学が学問の制度に組み入れられた結果、仕事が生まれ、キャリア欲しさや上昇志向にかられてフェミニズムの立場を採用する人が生まれる。

 

これらは本当に大きな仕組みに載せていくということの誤りそのものだと思う。たとえ載せるにしてもその代替物を用意しておかなければいけない。しかし実際には代替物を用意してもそれらは主流にはなりえず、不可視化され消えていくだろう。改良主義そのものがフェミニズムのようになってしまうだろう。

 

ところで、コンシャスネス・レイジングの場所はそもそも抑圧構造を自覚し、社会を変えていく運動が前提として存在したことが強調されている。それは単なる癒しの場ではなかった。単なる癒しの場とは結局抑圧的な社会構造の補完の場にすぎないのだ。

 

フェミニズム運動の誕生と相前後して作られた男性グループは、えてして、性差別や男性支配の問題を取り上げようとしなかった。」

 

「家父長制主義を批判し男性支配に抵抗するのを目標とするのではなく、自分の傷を癒すセラピーのような場になることが多かった。こうした間違いを、これからのフェミニズム運動はおかしてはならない。」と書かれている。

 

「シスター」になるためには他の女性の抑圧に対して闘わなければいけないと指摘されたように、自分と異なる被抑圧者の解放を目指すのでなければ、癒された人はそのまま抑圧構造に加担して平等の理想を忘れてしまう。

 

これらが既視感。全く同じことが「当事者研究」界隈におこっていくだろう。地に根づいたもの、実際の人と人の間で行われていたものが、人々から乖離したものとなる。高度な理論はアカデミア外には届かなくなる。新自由主義に資する部分だけが切り取られ、それが「当事者研究」だと言われるようになる。

 

企業に売られはじめた「当事者研究」だがそれが進めばより元々の文脈から離れてツール化していくだろう。マジョリティ属性をもつものが自分たちの癒しの場を作ることが隆盛しはじめる。

 

精神障害と抑圧的医療というような、不器用で見栄えが悪く社会を根本的に批判するような要素がより少ないスマートな「当事者研究」がもてはやされ主流になる。「当事者研究」という名前と実態がマジョリティに奪われる。

 

マジョリティ属性が強いほど、自分の状況さえ改善すればそれで満足し、社会の抑圧構造を補完し加担する側になる。

 

当事者研究」で仕事が生まれ、理念とは乖離した階級上昇的な動機でそこに入りこむ人たちがのさばるだろう。

 

コンシャスネス・レイジングの遷移で気づかれたように「当事者研究」にも必要なのは現社会環境がそもそも不均衡をもつことを認め、そこに向き合うという前提であり文脈。それがないと結局今の社会環境なりコミュニティの価値観への従属を暗黙に承認した場になる。その暗黙の承認自体がかなりの毒なのだ。

 

当事者研究」に対して自覚的であるならば、自分たちが関わる「当事者研究」は実質どのような(見えない)文脈にのっているだろうかということを曖昧なままとどめず、明確にする必要がある。

 

べてるの家はそこで生涯を終えることができるようなコミュニティだ。そこで行われる「当事者研究」ではべてるの家という強い圧をもつ文脈に適合するかたちでの自己像が作られるだろう。

 

一つのコミュニティの文脈に強く影響されることの危険は、カルト組織だけでなく、カオスラやグロー、そしてまだハラスメントが告発されていない福祉系、啓発系、教育系などの組織においても認識される必要がある。権力の強い代表なり上司が圧迫的に自身の信条を周りに強制していくような組織においては「常識感覚」は簡単に歪む。成員たちがそのリアリティに侵食され呑み込まれる。

 

ではいわゆる「コミュニティ」や組織に属していなければ安全なのかというとまるでそうではない。なぜなら「生きづらさ」というものは具体的な特定の困難をさすのではなく、社会の構造的な歪みに由来するものだからだ。つまり現社会環境がその人にとっての「コミュニティ」であるわけで、だからこそ生きづらさがでるわけだが、現社会環境の実質の価値観である自立、自己責任、能力主義、性差別、ルッキズムなどに影響された自己像が作られるだろう。そこにおかれている社会的文脈の影響なしに作られる自己像など存在しない。

 

当事者研究」の理念や実践によって少なくない人に「回復」がおこることは間違いないだろう。それを問題化しているのではない。指摘しているのは、その「当事者研究」が実態としてどのような社会的文脈をもっているのか、どのような社会的文脈におかれているのかによって、「当事者研究」を実践する個々人は無自覚にすでに敷かれている社会的文脈に適合するかたちで自己像を更新するという問題だ。

 

それに無自覚だとどうなるか。かつてコンシャスネス・レイジングの場でおこったことと同じことがおこる。つまり、マジョリティ属性がより高い人が自分の問題だけ気にしなくてよくなるまで「回復」し、社会構造の歪みはもう問わなくなる。そのような場では、社会構造の歪みによって苦しめられている人たちが社会の価値観を明に暗にもう一度押しつけられる場になるだろう。

 

現社会の構造自体が問題なのであり、それを変える必要がある。そして自分だけが気にしなくてよくなればいいのではなく、他の人の抑圧状況を変える必要がある。この文脈、この前提が抜けた場で「回復」するのは、既に恵まれておりマジョリティ属性がより高い人たちなのだ。そしてこの文脈と前提がない場所は、結局は生きづらさを作り出している原因である現社会構造を実質として追認しているために、場自体が回復的でないという根本的な問題を抱える。

 

当事者研究」は個人と周りの社会との関係を対象にするものだと思う。しかし、社会自体を問うことはない。これが問題なのだ。その場所でおこる「回復」はあるバイクが時速30kmしか出せないようなリミッターをかけられているような「回復」だ。自分なりに時速30kmまで回復するまではいいだろう。しかしまだ「回復」していく必要があるのに、それ以上いけないという停滞がおこってしまう。

 

社会を同時に問わなければいけない。社会を問わなければ、その社会やコミュニティの価値観は前提のままで自己像が更新される。よりマイノリティ属性が高い人は、それでは救われない。問題は個人の内面にあるのではなく、社会構造にあるのだから。

 

自分たちの属性や問題に関わる歴史をたどり、どのような関連する実践が社会で行われてきたのか。それを自ら確かめていくことで世界の見え方、社会の見え方は変わっていくだろう。この見え方が変わることが重要なのだ。回復とは自分が更新されていくことであり、自分の見え方感じ方を変えていく学びなのだと理解する必要がある。「回復」だけを求めても「回復」しない。

 

当事者研究」という自己理解と共有のツールは社会環境を問わない。しかし、この社会環境とは何かを自分自身の目で確認していかないと本当に自分が納得する状態は見えてこず、くぐもった「回復」にとどまってしまう。自分が、競争で勝っている「普通の人たち」のおさがりを生きているように感じられる。社会環境から内面化された価値観でしかものを見れないからだ。

 

当事者研究」が社会環境を問わないことには、危機意識を持つ必要がある。何も言わないというあり方で、事なかれというあり方で、社会の抑圧的な価値観は「当事者研究」の場で再承認される。その危険性に自覚的である必要がある。そして自分が納得いく状態に近づいていくためには「当事者研究」だけでは不十分であるということが気づかれる必要がある。自分が停滞しているのは「当事者研究」の不足ではない。

 

自身の社会環境を変えていく力を自覚すること。世間に誇れるような「成果」は何一つ必要はない。自分なりのちいさな学びの場をつくること、そして社会を問うていくこと。それが内面化された価値観を変えていく。そして自己欺瞞の牢獄から出るためには、自分だけでなく別の抑圧されている人たちも救われる社会構造をイメージし、そこに向かっていくことが必要だ。過去におこったことから学び、同じことを繰り返さないことが重要だ。