降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

『ヨコハマ買い出し紀行』買い出し紀行

デイサービス事業をはじめられたNPOさんのお話しを聞きに宇治へ。

 

行く途中の地下鉄で前に買った『こどものてつがく』を読む。クリシュナムルティが言及されていたので興味を持って買った本だったが、該当箇所を読んだだけになっていた。しかし、ふと気づくと林竹二についても言及されていたので、その林竹二の章を読んだ。

 

その章を書いた著者も震災後に林竹二を知ったそうで、実践で到達されたことがやはり残らず消えていくのだなあとあらためて思った。実践する人は過去のことをおさえてやっていると思われるけれど、いわば流行りものみたいなもののようだ。

 

先人が到達したことが受け継がれず、忘れられ、またゼロから問題が提起され、新しい流行やメソッドが生まれ、また消えていく。実践における賽の河原現象と僕は呼んでいる。

 

近鉄小倉駅で降りる。学部時代の大学はこの近くだったので懐かしい街の景色だった。知った場所にくるというのは、記憶のなかに入るということだと思う。思い出は追放されることのない唯一の場所である的なことを言ったのは誰だったか。

 

久しぶりの場所が、さして変わらずむかえてくれたという感じか。消えてかすれていく記憶が目の前の景色でもう一度鮮明さを復活させる。鮮やかさが精神に必要なのは、自意識がいつも古びていくからだろうかと思う。

 

思ったより用事がはやく終わったので、ブックオフに行く。閉店した鞍馬口ブックオフとは違って、ここのブックオフは残っていた。芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』があるかどうかをチェックする。百円のコーナーに結構あったので買う。

 

ヨコハマ買い出し紀行』全14巻を行った先のブックオフなどで安く買って、揃ったらどこかか誰かにあげるということをしている。『ヨコハマ買い出し紀行』買い出し紀行だ。ヨコハマ買い出し紀行は、僕の世界観の基軸にある。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

ヨコハマ買い出し紀行は、人がよく行って回転率が高そうなブックオフにはあまりない。あるいはそういうところでは処分されてしまうのだろうか? ともあれ小倉とか、そういう郊外のブックオフにヨコハマは「溜まっている」という感じだ。

 

小倉から4キロ弱離れたところに大久保のブックオフがある。時間があったので、69号線を南に歩いて大久保駅まで行く。馴染んだ69号線も小倉以南に行くことはほとんどなく、風景は新鮮だ。そうか、こういうふうになっていたのかと思う。

 

小倉駅大久保駅の間には伊勢田駅もあるのだけれど気づかず、まっすぐ歩いているうちに大久保駅に着いた。トイレに行きたくなったので喫茶店に入ったが、入ってみるとトイレはパチンコ店と共通のもので、別に喫茶店に入る必要はなかった。ミックスジュースを頼んだ。

 

殻について書きたくなり、喫茶店スマホで書いて、ブックオフ大久保店に向かう。大久保店は駅から西の方向にある。大久保は自衛隊の基地などもあるところだけれど、高い建物がほとんどなく、平らなところだ。空き地のようなところも広大で、草原のようになっている。

 

この平らな風景が新鮮に感じる。いつもごちゃっとした、空の狭い場所にいるからか。ブックオフまでの道はまっすぐで長かった。この地域、ここまで区画整理がされているのは自衛隊の基地があるからなのか。一つの区画の空間が広くて、ここを歩いていると人間の存在が小さく感じる。

 

途中に任天堂とかがある。17時がすぎていて、道路の向かいの歩道は駅へ向かう人たちが東へ向かっている。それがあまり見ない景色だなと思ったのは、道が細いため、それぞれ別々の人たちなのに同じ方向に一列で歩いていて、同じグループのような錯覚を受けたからだろうか。

 

30分弱をかけて着いた大久保のブックオフにはヨコハマは一冊もなかった。ここは「普通」のブックオフだ、と思った。ちらっと児童書のコーナーをみようとしたが、ちょうど店員の人が整理をしていたので通り過ぎた。

 

セカンドストリートという古着も扱っている店が途中にあったので、帰り道はそこに寄る。あまり欲しいのがなかった。

 

大久保駅について電車を待つが、大久保駅は高台のように見晴らしのいい駅だなと思った。遠くに少し高いマンションが見えるが、そこまでは平坦で風景は寂しく、旅しているときのあてどない感じが感じられる。この時間で近鉄で帰ると、太陽が西に沈むのが見える。

 

夜中に母親から電話がかかる。親戚が京都にくるということ。そして僕がやっている畑の野菜は売っているのかと訊かれたそう。野菜は自給だから売っていない。

 

売りだしたらどれだけ苦労になることか。夜勤に行けば一晩で2万弱にはなる。週に1、2回行けば生活はまわる。それを野菜で稼ぐとしよう。2万稼ぐのにどれだけの野菜を売らなければならないのか。どれぐらいの時間がかかるのか。

 

200円にした野菜を100セット売ることにかかる労力を種を用意し、作るところから計算すると、それがどれだけ馬鹿げたことなのかがよくわかると思うのだけれど、一般の人は想像しない。売らないのかと繰り返し質問される。

 

営利目的の採算は、ある程度大規模にやらないととれない。小規模の畑をやっている人が、無人販売所で野菜を売っているのは、あげているのと同じなのであって、あげているつもりでないと、割など絶対にあわない。

 

買うほうはスーパーの値段が野菜の妥当な価格だと思っているけれど、小規模で畑をやっている人が、そんな小銭で、しかも上から高い安いかとか値踏みされながら売る馬鹿馬鹿しさを想像する人が少ない。自給規模の場合は、野菜は余ったらあげる(もしくはあげるつもりで出す)の一択だと思う。

 

お馴染みの質問でげんなりしたけれど、平和な話題だなと思った。父も母も80前後で二人暮らし。なにが起こるかわからない。電話のたびに何かがおこったのではないかと思う。いずれ何かがくるのを想像して、落ち着かない。

 

 

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)

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