境毅さんは、このブログでも何回も言及させていただきました。
ミヒャエル・エンデの『モモ』において、大島かおり訳では、時間とは生活であると訳されているのですが、境毅さんは時間とは「いのち」であると指摘され、その指摘は僕が熱心に読んでいた里見実の『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』で言及されていたのです。
僕はたまたま大阪高槻市で行われている「読む!倶楽部」の読書会に参加していたときに境さんとお会いしたのですが、まさかそのときにもらった名刺の境毅さんと里見実が言及する境毅さんが同じ人であったとは、ととても驚きました。
境毅さんとは縁があって、その後も「お金の絵本プロジェクト」などの研究会で一緒させていただいています。6月15日にちいさな学校鞍馬口で開催する私の探究・研究相談室の発表会にも来ていただく予定です。
さて、先日山口純さんへの応答をブログに転載させてもらいましたが、境毅さんへの応答も転載させてもらいます。
境さんから教えてもらったことはたくさんあります。時間が「いのち」であること(僕はいのちをプロセスとよく表現しています。)、鶴見俊輔のサークルの研究の存在、論理的関係と倫理的関係(言語を通してされる認識は、ブーバーのいうところの「我ーそれ」関係であり、一方言語を介する以前の関わりとは、主体と相手に従属関係はなく、むしろ主体が相手によって変えられてしまう関係であり、それが本来の関係である「我ーなんじ」関係が倫理的関係であるという捉え方。)などの考えは境さんからいただいています。
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境さんへ
僕は境さんの思考からとても沢山のものをいただいています。
境さんがテーマにされているのが「お金」で、僕のほうテーマは「人がどう救われるか」なのかな?と思っています。
なので、もしかしたら僕が境さんのお話に大きく反応する部分が、境さんにとっては「そこか?」みたいに感じられるかもしれませんが、在野研究やジャンル難民の集まり的にはお互いのそういうことがいいところであるのかなと思っています。
カフェコモンズでやっている「時間」論も、実は僕的には境さんの「時間とはいのちである」というところをやっているつもりですし、論理的関係と倫理的関係については、僕は革命的な見方をもらったなと思っていて、その後もずっと考えています。
僕が勝手に受け取ったものと、境さんご自身が考えている定義は違うかもしれませんが、ぜひ「誤解」を楽しんで(許して?)いただけたらと思っています。
時間のワークショップは、昨今の中動態の考えを取り入れており、意思や意識的操作で物事をあつかおうとすること自体に閉塞があり、停滞があると考えています。
薬物依存症者が自力で頑張って克服することを諦めたときに回復がはじまるという話しがあります。
意思や意識的操作は、むしろその人のなかで動き出そうとしているプロセスを止め、その人を過去の否定的習慣に引き戻す結果を生むようです。
自力の放棄とは、投げやりになることでも放置することでもなく、自分のなかに既にあるプロセス、動きだそうとしているちいさなプロセスに応答へ移行していくことです。
その動いているプロセスのことを鉤括弧をつけて「時間」と書いています。なぜこういうふうにするかというと、時計ができる前は、太陽や月、潮の満ち引き、生物や無生物の変化のプロセス自体が時間であり、それが本来の(いのちとしての)時間だったと考えているからです。
一方で、時計の1秒それ自体には何の変化のプロセスもありません。本来はプロセスは一過性のものであり、季節や生きものの営みなどは繰り返しのように見えて、実は全ては遷移しているのですが、時計のなかでは物事は一過性でなく、永遠の繰り返しであり、概念のなかに完全に閉じ込められてもいます。
時計ができた以後の時間を意識するとき、人は緊張し、概念に閉じ込められた世界のなかで自らの変化のプロセスに応答できる状態を失ってしまいます。時間を忘れるとき、むしろその人の内のプロセスは動いています。
鉤括弧つきの「時間」とは、時計ができる前の、実際の変化プロセスを持った時間のことです。
本来はそのプロセスが本質であったのに、今は本質が奪われた、実態を伴わないただの概念としての時間が時間と呼ばれています。
いわば時間というこの言葉は、本物が偽物に奪われて、偽物が自らを時間だというのをみんなが認めてしまったような、おかしなことになっています。
時間が意識されないときにプロセスとしての「時間」は動き出し、時間が意識されだすとプロセスとしての「時間」は止まっていくという、まさに不倶戴天の関係、相反する関係です。
そして論理的関係と倫理的関係をこの話しに加えるなら、世界を言語によって認識することや切り離すことは、世界を「我ーそれ」関係として、コントロールするものとされるものに分けることであり、同時に「時間」を止めることとなると思います。
一方で対象と実際にかかわり、固定された「我ーそれ」関係が脇におかれた状態にはいることで、プロセスは動きだしていきます。
それが「我ーなんじ」倫理的関係にはいることといえるのではないかと思います。
話しは少しずれますが、言語を通した世界は論理的関係に置いて認識されるということは、たとえば人が看取りを求めるということにも関わっているのではと思います。
自分という存在もまた、言語を介して認識するなら、「我ーそれ」関係としてしか認識できず、よって「誰かにとって意味がある自分」を希求してしまうしか自分を認めるあり方がないのです。
もしかしたら、死によって意味がなくなっていく自分に誰かがついてくれるということは、誰かを従えているということであって、論理的関係においてしか認識できない哀しい自分の価値を最後に高めるということなのかもしれないなと思います。人が何かを自分のために犠牲にするというあり方でしか、論理的関係においては自分の価値を確認する方法がないのです。
長々と失礼しましたが、こう考えると人の思考がどうなっているのかが納得できるように思って、色々事例とこの考えを照応しています。
論理的関係と倫理的関係、鶴見俊輔のサークルの研究、いのちとしての時間などは過去のブログでも書かせてもらっています。↓
境さんが紹介されていた里見実の『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』
- 作者: ミヒャエル・エンデ,大島かおり
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