降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

時間に奪われた「時間」 私の探究・研究相談室発表原稿

◆「時間」とは?

この鉤括弧つきの「時間」は、一般的に使われる時間という言葉に鉤括弧をつけることで、別の意味として使っています。鉤括弧のついていない、一般的な意味での時間という言葉には「時間に追われる」、「時間を気にして」などというふうにタイムリミットのような忙しいイメージがついてこないでしょうか。時間、時間、時間、と続けて発音してみると、焦っているような感じがしますよね。

 

「時間を忘れる」というときは、とても何かに集中しているときです。そういう状態になっているあいだは、自分がやりたいからやっているのであり、精神的には悪くなさそうですが、はっと気づくと締め切りがあったとか、「やらなければいけないこと」があったのに忘れていたということもあるようです。そういう時は、何かと比べることを自体を忘れています。

 

この無心になるようなとき、夢中になるようなとき、時間や他のことを忘れてしまうようなときと、鉤括弧つきの「時間」は関係しています。外の時間を忘れているとき、動いている自分の内の「時間」があります。この鉤括弧つきの「時間」とはどういうものでしょうか。

 

時計がなかったころを想像してみます。そのころ、時間とは太陽や月の動き、潮の満ち引き、植物や動物など生きもの、そして生きていないものが変化していくことだったのではないかと思います。小さく生えてきた植物にいつしか蕾がついて花が咲くという「変化のプロセス」が時間だったのではないかと思います。

 

花には花の、太陽には太陽の、月には月の、海には海の変化のプロセスがありました。つまり、それぞれがそれぞれに固有であり、自律的である「時間」をもっていたのだと思います。

 

時計ができて、地球が太陽の周りを一周する一区切りが絶対的な基準になり、それまでそれぞれのものにあったそのもの固有の時間、自律的な時間はなくなってしまいました。確かに秒針が動く1秒のあいだに、世界では色々なものが変化するでしょう。しかし1秒という時間自体には何の変化のプロセスも伴っていないのです。

 

時計がなかったころ、蕾が花になるまでそこには絶え間ない実際の変化のプロセスが伴っています。時計がなかったころの時間には、常にそこに実際の変化のプロセスが伴っていたのです。ところが、時計ができたあとの時間では、時間それ自体には何の変化のプロセスもありません。これはつまり、時間が実際の変化のプロセスであった本質を奪われて、実体を伴わない概念に取り替えられてしまったということでもあると思います。

 

変化のプロセスという本質を抜きにしてしまうと、時間は人間を管理するものになります。あと何時間であれをやらなければいけない、何日後にこれをやることが決まっているといったように。変化のプロセスとは、生きているものそのものなのですが、時間が管理できるのは死んだものであり、思いのままに従うものです。

 

ですが、もちろん人が死んだものになっているとき、その人はその人自身を生きていたりはしません。自然な変化のプロセスを優先せず、直接に管理操作できるもの(つまり死んだもの)で生きることを覆っていくと、人は本来の変化のプロセスを止められたまま、つまり「時間」を止められたままになってしまいます。

 

『モモ』という児童文学があります。主人公の女の子モモは、人の話しを聞くことが上手で、話しを聞いてもらった人は、自分の困りごとが自然に解決したりします。そのモモがすむ場所に時間泥棒という人たちがやってきました。彼らは人々に無駄なことに使う時間を「節約」して、お金になる有意義なことをしようと説きます。そして節約した時間を自分たちの銀行に預けてもらうのです。
 
ところが人々は時間を「節約」したほうが忙しくなってきます。心の余裕がなくなり、縛られ、以前よりもっと強迫的になっていきます。人々は時間を節約してためていたたつもりが、実は奪われていたのです。何を奪われていたのでしょうか。それこそ鉤括弧つきの「時間」なのです。人それぞれにある固有の変化のプロセス、固有の自律的なプロセスは、それが自然に動く環境を与えられないと動かないのです。

 

人々はお金(時間)として蓄積できるものが一番確かであり、それを貯めることが有意義なことだと勘違いしてしまいました。皆が一律の行動をするようになってしまいました。しかし、そうではないのです。モモにはモモに必要な時の過ごし方があり、ベッポじいさんにはベッポじいさんに必要な時の過ごし方があるのです。その過ごし方を抜きにして、その人が生きるということはないのです。

 

「過ごす」とは、あるプロセスを自分にもたらすことが含まれています。それぞれに必要なプロセスを呼び起こす環境を得て、そしておこったプロセスに応答していくことを抜きには、人は自分に必要な変化をおこしていくことができないのです。

 

僕は鉤括弧のない時間という言葉自体が時間泥棒であるかのように感じています。時間の忘れ方を知ること、それはつまりお金のように蓄積していく確実さ(往々にしてそれが普通は「有意義なこと」と言われますが。)だけで生きることを覆ってしまわないあり方を取り戻していくことではないかと思っています。

 

鉤括弧のない時間とは止まった時間であり、鉤括弧のある「時間」とは生きている「時間」、動いているプロセスそのものです。自分が既に知っていること、やれることで生きていることを管理しつくそう、コントロールしつくそうとするとき、その人の「時間」は止まっています。逆に「時間」が動いていくとそのような強迫はだんだんと弱くなっていきます。


◆「時間」についての研究の進展
 「時間」とは、概念のように実際には存在しないものではなく、実際に存在し、種がやがて種自らを作り出すように、自律的な展開の完成形を内在し、かつ自分自身で動き、展開していく力をもっている変化のプロセスです。それは実際に存在するので、その影響は周りの人にも伝わり、周りの人のそのプロセスと同調、共鳴、活性化するようです。ウィトゲンシュタインは、無時間性という言葉で次のように述べています。

 

 死は人生のできごとではない。人は死を体験しない。永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない。 -ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考

 


鉤括弧つきの「時間」は時間という言葉に奪われ、入れ替わられた本来のものを表現するために使っていますが、無時間性という言葉を使うのもわかりやすいかなと思っています。