山口純さんへの応答 南区DIY読書会番外編 イリイチのアイデンティティとルーツ
前書き:南区DIY読書会では、読書会の時間以外でもメッセンジャーでやりとりしたりもしています。読書会メンバーの山口純さんとのやりとりが読書会内だけのメッセンジャーのやりとりだと勿体無い気がしてきて、まず僕の応答だけでも公開しようかと思ってこちらに書いてみます。
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純さん 「DIYとギフトエコノミー」の建築協会の受賞おめでとうございます。
アクター・ネットワーク理論の二元論が異種混交のネットワークを隠蔽するという話し、「生産者と消費者」とDIYの関係でもあるのかなと思いました。DIYはみんなが生産者になるということより、規格化、画一化されていくネットワークによって疎外されていく生を異種混交なものにしていく意義が大きいのかなと思いました。
みんなが生産者になるべきだとか、無前提に自分でできることや手作りがいいのだとか、そういうあるべき姿への強迫は世間に根強いなあと思います。ちょっと意識が「高く」なるとDIYしていない自分を恥じる、DIYすべきだ、DIYできない自分は駄目だと思考したりというふうになる感じがしていて、手段であるはずのものが目的化して悩みを一つ余計に増やしているなあと。
「あるべき姿」は普遍的で絶対的なシステムが前提されてないと出てこないと思います。昔、いい大学にいっていい会社に就職して、というようなことを信じた多くの人の間には「あるべき姿」はあったのでしょうね。しかし、それに同一化できず、はみ出る人たちがいて、その人たちは生きていくために、その時代の「あるべき姿」の信念を共有しない、別の環境に行こうとしたり、作ったりしていったのかと思います。
その際大変なのは、別の環境を求めながらも、既に内面化してしまった価値観があるので、それを変化させていく必要があることだと思いますが、その変化もまた既存の価値観が支配する環境ではない環境を自分が調整して作りだし、そこで体験していくことなのかなと思います。
英国の小児科医ウィニコットは、体験とは繰り返し到達することだと指摘しています。繰り返しの到達によって、古い価値観からの離脱と新しい価値観の身体化がおこるのかなと思いました。
イリイチのアイデンティティとルーツの話し、興味深かったです。イリイチ、こんなこともいってるんですね。『生きる意味』、図書館で予約しました。僕は、イリイチの言っていることは現代に通じる正論をいってるように思うのですが、あんまりイリイチを本気にして取り扱っている人っていないことないですかね?(自分の狭い世界の印象ですが・。)
今、宇井純の『自主講座「公害原論」の15年』を読んでいます。東大で助手だった宇井さんは大学の不文律の規則によって、助手が独立して講義をすることができなかったのですが、「本当に納得のいく内容」を講義するために自主講座を立ち上げました。大学の施設を使用することには、工学部教授会の拒否にもあいましたが、新聞記事の後押しによって学長が動き、工学部教授会に圧力をかけて講座が実現しました。自主講座はテレビカメラも入るし、何百人もの人が押し寄せるものになって15年続きました。しかし宇井さんは、能力はあっても工学部の土木閥からは敬遠され、教授にも助教授にもならなかったそうです。
自主講座は宇井さんの非制度化、非組織化を望む志向によって、団体にはならないのですが、そこに集まる人の流れは、やがてチッソの株主総会に一株株主として意見をいう人たちの流れになったり、都市工学科の学生との団体交渉となったり、予想のつかないスピンオフを生んでいったそうです。
宇井さんの事例で言いたいことの一つは、実践的で意義があり、それに伴う内容があることであっても、組織(東大。)がフラットなものではなく自らのグループの権力の増大を目指すので、それ以外のものは抑圧されたり、無視されたりするということ。
もう一つは、それにも関わらず、自主講座がマスコミを巻き込んで大きな展開をみせ、しかもそれは様々な流れを派生させていったことです。そしてその展開は「組織化」の方向ではなかったことです。
(組織とは、本来即興的なものであるのだと思っています。それは生まれてきた一時的なプロセスだと思います。しかし、その本来性を無視して、ずっと維持しようとしたり、強制的にある目的を達成しようとすることがいわゆる組織の歪みや個人の疎外としてあらわれるのではと思っています。)
さて、イリイチが指摘するのは、アイデンティティが境界によって外部と内部を区別する存在のあり方や認識の仕方であって、一方、ルーツは辿って行くこと、結びつけることによって、多様な流れの結節点としてものごとが存在するあり方認識の仕方ということですね。
アイデンティティにおいては個が外部と切り離されて確立し、実体化するのに対し、ルーツは単に文脈と文脈の結節点であるので、外部と切り離された個は存在せず、個としてあるようにみえても、それ自体として実体を持たないものになるのかなと思いました。
また、民俗学では柳田国男のような先祖崇拝を重視する見方と、折口信夫のようなマレビトを重視する見方があるけれど、学問的に扱い易いのは形式化できるアイデンティティの方で、ルーツの方は流動的で扱いづらいとも純さんは書かれていました。
これは、僕の言い方でいえば、止まった時間としての時間と、プロセスとしての「時間」であるように思います。アイデンティティ、先祖崇拝、学問の現在のあり方は、止まった時間としての時間です。
一方、ルーツ、マレビトのほうは、恣意的に時間を止めない限り、個別化・実体化しない変化のプロセスそのものです。時間を止めることによってしか認識できない一方、時間を止めたプロセスはプロセスの本質を失った偽物です。止まったものはコントロールできますが、プロセスは自律的であり、抑圧はできても、コントロールはできません。
今の学問は、プロセスを存在しないものとしていると思います。そうすることで、自らの権力性を担保しているのでしょう。真実を知る方法を自分たちに囲い込む体制をつくっているのだと思います。
止まったものとしての時間は、意識・認識・操作・人間中心主義と関わっています。一方、動いているプロセスそのものである「時間」は、意識の支配を打ち消すこと、結論づけたものと付き合うことをやめること、操作ではなく応答すること、環境との生の躍動性(アライブネス)の高め合いと関わってくるものだと思います。
「時間」の話しはなかなか人に通じないのですが、止まった時間を打ち消すとき、「時間」が現れます。無心になるとき、時間を忘れるときなどが「時間」が現れているときです。ウィトゲンシュタインの語りに無時間性という言葉がありました。「時間」とは無時間性のことといえばわかりやすいですかね。時間は本来動き続けるプロセスなのに、止まった偽物のほうを本物だと思わされているのです。
死は人生のできごとではない。人は死を体験しない。永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、終わりを持たない。 -ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
— 社会学・哲学・文学等私的名言bot (@siteki_meigen) December 30, 2012
クセナキスが時空の認識について、人間がそこにとらわれ、今がいつでもあるような存在であることを失っているということを指摘しています。僕としては、認識自体を限界あるものとして主役からおろすということまで、色んな人と共有できたら楽しい世界がくるのになと思っています。
クセナキスが高橋悠治にニューヨークの空港のカフェテリアで言った言葉「人間は時空の認識にしばられている。この悲しいガラス箱のなかの迷路からぬけだして、ここが二億光年のかなたであり、いまがいつでもあるような存在に目覚めることができるだろうか」高橋悠治「音の静寂 静寂の音」より
— Shigeky (@okawa70409184) May 1, 2019
※イリイチの生命観、生命の本質としてのアライブネスについて詳しくは『「時間」に応答する責任としての倫理』で 片山博文さんの論文を引用して紹介しています。
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