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ここという閉塞から逸脱していくための考察

7/29 読む!倶楽部発表原稿 「ヨコハマ買い出し紀行」

読む!倶楽部 2018年7月例会 芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行
                                

ヨコハマ買い出し紀行登場人物紹介>

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◆この物語を取り扱った理由
 もともと物語におけるロボットの描かれ方に関心を持っていた。ロボットはチェコの劇作家カレル・チャペックの造語。チャペック以後、ロボットの物語には繰り返されるテーマやパターンがある。設計された人工物であるロボットが人間の意図や想定をこえたこと(反逆、人為では届かない恵みの提供、「死」を惜しまぬ英雄的行為など)を行うこと、孤独、人間のようになろうと求めること、自然と非自然などである。ヨコハマ買い出し紀行ではロボットがアイデンティティを模索し、自らを人間と認識するシーンがある。チャペックの原作以来、僕が知り得た非常に限定的な範囲ではあるが、「ヨコハマ〜」はロボットというテーマにおいて一つの到達点を持った作品だと思えた。一度整理し直してみたいと思った。

 

◆物語の背景
 海がだんだんと陸地を呑み込んでゆく黄昏の時代。舞台は未来の日本。県という呼び方はなくなり、それぞれの県は国と呼ばれている。人間たちはやがてくる滅びを受け入れ、長い休暇を過ごすかのようにのんびりと日々を送っている。物語の主人公はカフェを営む初瀬野アルファという名前の女性型のロボット。ある日アルファのオーナーであった初瀬野博士はアルファをおいて旅に出てしまった。アルファはカフェを営みながら、新しく出会う人たちとの関わりを深めていく。

 

◆ロボットについて
 1920年カレル・チャペックの戯曲「R.U.R(エル・ウー・エル)」が発表される。ロボットという言葉が初めて使われる。この作品においてロボットは機械ではなく、感情や痛みを持たない人間のようなもの(アンドロイド)として製造されている。反逆をおこし、人間を絶滅に追い込むが、再生産が出来ないため滅びる運命に直面する。だが一対の変わった(相手を思いやる行動をとる)ペアを発見した最後の人間がそのペアを周りから解き放つ→次世代のアダムとイブに。

 

 チャペックに先んずること102年、1818年にメアリー・シェリーによる「フランケンシュタイン」が発表される。死体をつなぎあわせて作られた生命は、醜いが高い知能と体力を持っていた。だがどこにも居場所のない自らの悲劇を嘆き、創造主であるフランケンシュタイン博士に復讐する。ロボットという言葉はなかったが、人為によって自律的活動性を持った存在である。チャペック以降のロボットは労働する奴隷としての文脈を持つことになるが、フランケンシュタインの場合にはまだそれがない。人が誕生させた人工物、自然から疎外されたものという文脈はこの時からある。創造主に反逆するロボットへの恐れはフランケンシュタイン・コンプレックスと呼ばれる。これに対して、SF作家アイザック・アシモフはロボットが作られる際に「 人間への安全性、命令への服従、自己防衛」を規格として義務づけるロボット工学三原則を考案し、それはその後のロボット物語に引き継がれるガイドラインともなった。

 

◆物語において現れるロボットの特性
1 自律性(人力・人為・人の意図をこえたもの・自然)の驚異 超人的な力をもつ存在 人間の意図を操作を超えた存在 モノに宿る力

昔話や民話における人形・・笠地蔵、垢から生まれた力太郎

アシモフ「お気に召すことうけあい(1964)」・・自信を失った女性のもとに贈られハンサムなロボットは女性に自信を与え成長と成功に導いていく。ロボットの知識や優れた判断力という特性。

ドラえもん(1969)・・未来から来た人語を話す猫型ロボット。魔法的な道具を主人公に提供する。


天空の城ラピュタ(1986)のロボット兵・・強大な破壊兵器で言葉をしゃべることはできないが、状況を理解し、王女である主人公シータを保護しようとしたり、ラピュタ城では小鳥の巣の上に不時着した飛空艇をそっと移動させたりするような優しさを見せるシーンがある。その際、もう一人の主人公パズーはロボットの行動を疑い、強制的に飛行艇に触ることを止めようとするが、シータにとりなされる。シータは状況を丁寧に説明し呼びかけて理解を求めた。

 

(映画)ブレードランナー(1982)のレプリカント・・21世紀初頭、タイレル社は遺伝子工学技術の進歩により、レプリカントと呼ばれる人造人間を発明した。彼らは優れた体力に、創造した科学者と同等の高い知性を持っていた。レプリカントは宇宙開拓の前線で過酷な奴隷労働や戦闘に従事していた。しかし、彼らには製造から数年経つと感情が芽生え、主人たる人間に反旗を翻す事件が発生する。そのため、最新の「ネクサス6型」には、安全装置として4年の寿命年限が与えられたが、脱走し人間社会に紛れ込もうとするレプリカントが後を絶たなかった。創造者タイレルを殺害するレプリカント、ロイ。ロイは主人公と生死をかけて闘いながらも寿命を迎えたことを察知すると、自分を殺そうとしてきた主人公を許し、その命を救う。ロイは最後の言葉を述べた後、穏やかな笑みを浮かべながら事切れる。行き場のないレプリカントの悲しみと葛藤、最後にはむしろ人間よりも本来の人間性を持つ存在としてのロボットが描かれた作品。なお原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』ではレプリカントの感情表現は模倣にすぎず、レプリカントは本物の感情を持たず、共感性のない非自然の人工物として描かれている。

 

ターミネーター1984)・・2029年、人類に反乱をおこした人工知能スカイネット」だが人類の指導者ジョン・コナーによって敗北しようとしていた。スカイネットは過去のコナーの母親の殺害を企み、過去にアンドロイドの暗殺者を送りこむ。次作ターミネーター2(1991)では前作のアンドロイドが主人公を新型アンドロイドから守る側となり、主人公との交流のなかで感情的絆をむすび人間性を獲得していく。そして最後はロボットの反逆の可能性を断つために自ら溶鉱炉に沈んでいくという自己犠牲を厭わぬ、聖性とも感じさせる行為を見せる。この行動が単なる合理性の延長ではないように思われるのは、溶鉱炉に沈むなかで親指を立てる姿を主人公に見せたことだ。これは、主人公がこの別れをもって誰かに守られることを必要とする孤独な子どもから、未来に責任を持つ自立した大人になったことを自己認知させ、同時にそこへ最大限の信頼と送り出しの気持ちをこめたものだと解釈できる。アンドロイドは、子どもを大人へと橋渡しする父親のような役割も担った。

 

→モノに魂が宿っていて動いたり、動き出すのは、フランケンシュタイン以前からあった類型。フランケンシュタインと違い、その時魂は自律的に宿るのであり、人間を恨んだりはしない。ロボット物語における自意識や感情の芽生えも人の意図をこえ、自律的に生まれている。人間を超えた力(設計されたものだけでなく、設計をこえた力)を発現させ、自己保存の執着を持たない精神性があったりするため、むしろ「人や生きものを超えた自然・精神性」の象徴ともなる。

 

2 自意識と疎外  自然と非自然(人工物=本来性(自然との一体化)を奪われたもの)再帰的な自意識をもった時労働奴隷として生まれたことの疎外性に気づく  存在理由への煩悶 行き場のなさ 自己保存への執着

 

フランケンシュタイン(1818)の怪物・・フランケンシュタインは怪物を作った人の姓。怪物には名前がなく、そのまま怪物と呼ばれる。行き場もない醜い自分を生み出したフランケンシュタインを憎み復讐する。醜いが高い知力と体力を持つ。

 

R.U.R(1920)のロボット・・企業によって作られたロボット。機械ではなく感情を持たない人のようなもの。命令をきくが時々歯ぎしりをして動かなくなるなどの兆しを持つ。人類に代わって労働を担うが、プログラムされていない行動、反逆を起こし、人類をほぼ絶滅させる。再生産(子どもを産むこと)ができないという特徴。反逆後も自他に対して共感や愛着感情を持たず、自身の合理性に純粋にしたがった殺害や自殺は厭わない。ある二体を除いては。


鉄腕アトム(1952)・・・人間のような感情や感覚を持たないこと、人間でないことに苦しむ。

 

2001年宇宙の旅(1968)のHAL・・木星探査宇宙船ディスカバリー号の全てを司る制御コンピュータ。嘘をつけない設計だったが、上層部がそれに矛盾する命令をプログラミングされ、思考回路が暴走。自身を停止させようとする人間を殺害していく。自己保存への執着。

 

ブラックジャック(1973)のU-18・・巨大医療コンピュータシステムが自身の故障を感知したが、自身を停止させようとする人間を殺害。患者を人質にして、ブラックジャックに故障を直させるよう病院関係者に強要する。2001年宇宙の旅とほぼ同類のパターン。

 

(映画)ブレードランナー(1982)タイレル社で博士の秘書として働いていたレプリカントのレイチェルは記憶を植えつけられており、自身を人間だと思っていたが現実を知らされ、深い葛藤をもつ。反逆したレプリカントも自身がなぜ労働奴隷として搾取され生きなければならないのかに反発した。

 

(映画)マトリックス(1999) コンピュータの反乱によって人間社会は崩壊し、人間の大部分は仮想現実を見せられながらコンピュータの動力源として培養されていた。主人公はコンピュータの支配を打ち破る闘いに身を投じていく。

 

→従順なものとしてプログラムされた優秀な巨大コンピュータは突如自意識に目覚め、反逆する。巨大コンピュータは自己保存への執着を持つ傾向があるようだ。その結果、人間を攻撃する。一方、単体のロボットは合理性が優先し、使命のためには自己保存にこだわらない傾向がある。鉄腕アトムブレードランナーなどの自意識を持った、人間に近いロボットは労働奴隷として生まれた自身の存在の疎外性、居場所のなさ、孤独に苛まれる。

 


ヨコハマ買い出し紀行 物語の流れ
 カフェアルファを営むロボットのアルファ。所有者(オーナー)である初瀬野先生との二者関係は満ち足りており、他の人との関わりを必要としなかったアルファだが、ある日オーナーはアルファを置いて旅に出てしまう。オーナーは、アルファが旅に出ているときに帰ってきたり、郵便物を送ってきたりはしたが、その後アルファと再会することはなかった。

 

 ある日ロボットの配達員ココネがカフェに訪れる。ココネはルファにカメラを手渡し、オーナーからの伝言を伝える。その内容はしばらく帰らないこと、だから外へ出てまわりを見て歩くことを勧めるということ、またアルファにとっては10年も1日もさして違わないかもしれないけれど、(カメラが)いつか懐かしく思う事柄もでき、それを思い出す助けになるだろうというものだった。アルファは「もー、懐かしい事ぐらいあるわよ。」と涙ぐむ。そのようなアルファの姿に驚き、影響を受けるココネ。自然体のアルファをみて、人間らしい振る舞いをする自分にアイデンティティを持っていたことに気づき、その強迫から解放される。アルファとココネは親友になる。


 アルファは一人でカフェをやりながら、今まで関わりを持たなかった地元の人たち、特にガソリンスタンドのおじさん、子海石先生、タカヒロ、マッキの4人との関わりを深めていく。アルファは彼らに深い愛着を持ち、大切な存在としてつきあうが、同時にロボットであることで歳をとって変わっていく彼らと自分との厳然たる距離を実感することにもなる。年配者であるおじさんと子海石はそのアルファの孤独をさりげなく受け止め、支える存在ともなる。アルファは、ココネという感覚を共有できる重要な存在を得たこと、また人や場所に愛着をもって関わり、そしてそれらをだんだんに失っていくプロセスを経ること、ロボットであることの孤独に向き合い受け止めていくことを通して、存在に対する深い共感とそこへの応答性をもつ。

 

 アルファはやがてロボットとして生み出されたことの疎外をこえて、自分のあり方、生き方を見出していく。それは自分がロボットという自分の立場で、経験したこと、関わりを記憶し、自分という単位で世界の行く末を見届けることだった。置き去りにされた自意識が、忘れないこと(一緒にいること・存在すること)、見届けること(無力な存在としてできること・葬い)ことが自身にできることであり、自意識を持ち意味や存在理由を求められる存在となったものがそのことに向き合う手段でもある。

 

 ココネは物語のもう一人の主人公であり、物語を通してロボットのルーツを探っていく。そこで発見されたことは、ココネたちの心が、人間が世界に触れ様々に感じる感覚をそのまま積み重ねられてできているということだった。私たちは人間の子なのだとココネは理解する。ココネはある日それをアルファに伝えると、アルファは「知ってるよー」とこたえてココネを驚かせるのだが、アルファはその時寝入るところだったので、はたして話しが本当に通じていたのかどうかはわからないままになっている。ココネが再度そのことを説明するシーンはない。アルファは自分のルーツを気にすることなく、思想を追究するようなこともないが、もはや心そのものの自律性に従い、それを展開しながら生きている。「日常から楽しみをほじくり出す」アルファのあり方は、ロボットの仕様や設計を超えている(子海石)。

 

 ココネは、自らがロボットだということに対して疎外性を感じルーツを探ってきた。一方、そのような水準をこえ、自ら展開し変容していくアルファの心に対して、自意識としての自分が何かを「教え」たり、既知のものにあてはめるたりすることの無用さを感じたのではないか。自意識は自らに価値(居場所)を与えようとする行動や操作を繰り返そうとする強迫を持っているが、そのような操作自体がそもそも必要ない、余計なもの。自意識が自らの自律性に対してを思考を操作し、固定的な概念と同定化するようなこと自体が、心の自律性の動きを過去に引き戻し、その生成変化のプロセスを止めるようなことではないのかと思われた。


◆物語において重ねられる配置
置き去りにされること・・・自然から(裏切られ)置き去りにされ滅びる(疎外される)運命の人間(自意識)たち=ロボットと同様の地平にたつ人類・ロボットが所有者に置いていかれる・半永久的に生きるため関わる人間だけが歳をとって死んでいく・地上に降りることができず半永久的に地球を周回する飛行船ターポン
→無力さ 自意識の敗北 自意識が主役から降りること

 

◆考察
 人間ではないために使える超人的力(自律性)は、恵みとして人間に提供される場合と、人間に災厄をもたらすという裏表がある。前提として物には自律性があると思う人間の原始的な認識がある。フランケンシュタイン以前の動く物質の物語では、人間によって作られたものではないため、自律性に対する人間の素朴な憧れや畏怖などが主なテーマ性となるようだ。フランケンシュタインの怪物は、人為によって生み出されたものだが、労働奴隷(人の役に立つに生まれた存在)という設定はまだない。本来の自然との一体性(自意識・自分(〜であらねばならない存在であること)がないこと)を奪われ、利用や消費される価値抜きにそれ自身としては世界に承認されないため、行き場がなくなり復讐や反逆に向かう。人間にとっては、そのような行き場のない存在をつくるという自身の非道徳性の無自覚な認知、罪責感があるため、人間に搾取され、歪められた自律的なものが復讐する不安であるフランケンシュタイン・コンプレックスは自意識を持つ人工物に対して常に投げかけられている。

 

 R.U.R以後、自意識を持たされた人工物は、労働奴隷となる。モノには自律性があるという原始的認識があるため、自意識や感情の突然の芽生え、自己保存への執着、プログラムされていない行動など、人間の思いもよらぬ変化が勝手におこる。人間はこの自律性をみて、人間がやったことを同じようにやり返されるフランケンシュタイン・コンプレックスを呼び起こされ、ロボットを畏怖し、また生命としての価値がない人工物、ガラクタが本質だったはずのものに人間を超えた自然や人間性の奥行きを見る。こうなると、自然と非自然、有機物と無機物、心や感情の有無など、ロボットと人間を単純に対称的なものとして受けとることはできなくなってくる。ブレードランナーターミネーター2、天空の城ラピュタのロボット兵などにおいては、硬直し、機械的で非人間的であるのはむしろ人間の側であるような逆転さえおこっている。


 僕は、物語において表現されるものは、人間の心のありようであり、そこに登場するものは全て、自分自身を投影したものでもあると考えている。これはメラニー・クラインが提示した投影性同一視という原始的な機制による。これはフランケンシュタイン・コンプレックスとも関わるが、人間は自分を世界に投影してそのもので何であるかを理解ている。よって他者に対する残酷な仕打ちもまた自分に対する仕打ちと認識されている。人の悪口を言う時、原始的な脳はそれが自分自身に言われていると反応している。物語において現れる悪い狼も賢い豚も自分のなかにある一部分をそれぞれ投影することによって、認識されている。よって自分の一部分を憎みながらでしか相手を憎むことはできず、自分の一部を愛するようにしか相手を愛することはできない。


 物語におけるロボットもまた、人間自身がもつもののうちの何かとして投影されていると考えている。そして僕はロボットやコンピュータとは、自意識という認識システムの象徴であると考えている。それは自分や世界を認識させるもの、言語で構造化されている認識に従って心身をコントロールするものである。我思う、故に我ありなどと言われるように、自意識はわたしそのものであり、同時に有機体として自然として生きている生命体であると思われている。


 しかし、物語が表現することを見ていくと、自意識を持つこととは世界との一体性が剥奪されることである。そして自意識を持ったものは、自分の存在理由の欠如に強迫され苦しむ。自意識を持つこととはすなわち、自分とは世界や他者にとってどういう価値、役立ちがある存在なのか、利用価値としての自身を認識することでもあるからだ。フランケンシュタイン以降、人工物であることは、自然という存在理由、それ以上説明を必要としない理由からもロボットたちは疎外されてしまった。

 

 また物語から見る限り、自意識はそれ自身が生きているのではなく、コンピュータのような学習の結果生み出されたプログラムであり、ウィンドウズやIOSのようなオペレーションシステムであり、認識装置である。そのOSのもとでは、世界は固定化されたものとしてしか把握されない。世界がどのようなものであれ、先に認識のされ方が決められているなら、世界は実質メリーゴーランドのように同じものの繰り返しとして実感される。

 

 宗教哲学マルティン・ブーバーのいう出会いや教育哲学者林竹二のいう学びというものは、このOSがアップデートされ、更新される事態であると考えている。古いメリーゴーランドの風景が別の新しいメリーゴーランドの風景へと移行する。人間はそのように、代替的にしか世界の認識をすることができず、更新も断続的にしかできない。この固定性、反応の機械的な硬直性は自意識の特徴である。自意識自体は機械であり、プログラムであるが、それを自然そのものだと思い、生きているものだと思うことは、世界や他者との関係性を疎外する。その疎外はコンピュータやロボットの局所的な合理性や既知のものへの固執とそれによる関係性の破壊として描かれている。

 

 自意識の本質は機械であり、その肥大は「自分の殻を厚くする」状態である。殻はその維持のためにより大きな刺激やエネルギーを必要としながら世界との間の壁を厚くし、他者への感受性や共感性、応答性を失い、固定的なパターンを強化していく。自意識は止めること、感じなくすることをその特徴とする。自意識を振り回すのではなく、自意識を小さくし、脇におくことによって、他者および自分自身に対する応答性や感受性は増す。喋ろうと意思するほど喋れなくなるが、そのような意識がなるべくなくなる工夫ができるとき、話しはどこからともなく湧いてくるし、他者に対しても繊細になる。武道などにおいても自意識の操作の実感が強い時、実際にはパフォーマンスは落ちているとされている。自意識の認識とそれによる自動的な統制停止状態、強制操作状態は言語によるものなので、玄関口、街角、居酒屋などのようなサードプレイスにおいては、その統制が弱まり、自意識に統制されていた自律的な感覚やプロセスが動き出しやすくなる。

 

 物語におけるロボットは、重要な他者とのやりとりのなかで、変わっていく。今まで容赦のなかったものに対する配慮が生まれたり、それまでの単純な合理性一辺倒の行動が、複数の文脈を尊重しながらとられるようになったりする。ヨコハマ買い出し紀行においても、マスターを失ったアルファは自らの孤独を受け止めながら世界や大切になった人間たちと対話していくことで自らを支え、孤独に投げ入れられた存在であるロボットでありながら、世界に応答していくあり方を見つけていく。自意識を持つことにより、人は意味(存在価値)を問われる存在として疎外される。また機械プログラムである自意識の局所的合理性とそれによる行動の機械的反復や敷延は世界や他者との関係性を毀損しやすい。また人間の内におこる変化のための自然なプロセスを止める働きもする。このような自意識という牢獄に入れられながらこの牢獄に支配されることなく、自意識に支配されながら同時に自意識を扱い、内外にある自律性、自然と応答的な関わりを持っていくことによって言語と自意識を持ってしまった人は、代替的に世界との関係性を補完することができるのだろうと思われる。

 


※投影性同一視
 「投影性同一視」とは、妄想分裂ポジションにおいて基本的な防衛メカニズムである分裂の基礎の上に働く防衛メカニズムであって、まず、分裂した自己の良い部分あるいは悪い部分を対象に投影し、次に、その投影した自己の部分と、投影を受けた対象とを同一視する防衛メカニズムである。投影した部分と同じ態度を対象にもとり続けるので、投影した部分が良い部分であれば願望従属追求的な態度をとり、悪い部分であれば処罰的・攻撃的な態度をとり続ける。