降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「時間」に応答する責任としての倫理 ピーター・シンガー『動物の解放』

ピーター・シンガー『動物の解放』を読む会へ。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

薄々知っていてもあらためて狭い場所での異常な過密監禁(過密が原因で死んだり病気になってもなお詰め込む方が儲かる)による畜産や実験動物を取り巻いた状況は、自分の購買状況を変えようと思うぐらいにはえげつなかったです。

 

人間の奴隷、日本では技能実習生や入管に収監されている人に対してするようなことに加え、豚が出産する子どもの数を自然なら16頭のところを45頭産めるようにするとか、癌の研究をするために遺伝子操作して癌になりやすい体質の動物を作って特許をとるとか、体の中身の仕組みまで平気でかく乱させることに対しては非常に強い抵抗感がでました。

 

状況は改善されて然るべきだと思っています。と同時に、動物福祉というような人間中心主義、自意識中心主義からの発想にも違和感があります。

 

僕は今、「時間」という見方を取り入れることで、世界との付き合いをより回復的なものにできないかと考えています。

 

境毅さんは『「モモ」と考える時間とお金の秘密』においてモモにおける「時間」の意味、「時間」の中身とは「生活」ではなく「いのち」と訳するのが妥当ではないかと指摘されました。

 

www.shoshi-shinsui.com

 

僕もそう思います。ただ「いのち」という言葉は誤解が多い言葉です。

 

片山博文氏は、イリイチの生命観批判の考えについて次のように述べています。

 

彼は、制度的管理の対象と しての「生命」を「生き生きとしていること aliveness ではなく生存 survival に力点を置い ている」概念であると指摘する。これに対して、西洋におけるソクラテス以前、およびそれ 以後の哲学的伝統では、自然とは「生きていること―一つの生命 a life ではなく、生きてい ること alive―であり、一つの母体ないしは子宮のようなもの」であると考えられてきた。ところが近代とともに自然はそうした生気を失い、「自然の死」がもたらされる。彼によれば、 近代におけるこの「自然の死」が、「生命なるものが管理されるべき対象として、また人工知能のように製造されることさえ可能な対象として現れるような文化的空間」を生み出したのである。」 片山博文「ヴァンダナ・シヴァのコモンズ論における生命の概念について」https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180408082209.pdf?id=ART0010482472

 

「いのち」という言葉は残念ながらイリイチが批判するように、本来の躍動性(aliveness)を本質とする「いのち」ではなく、自意識としての主体が所有するものとしての生存(survival)のイメージが既に強くついてしまっているので、「いのち」を使うと誤解のほうが大きくなってしまうという危惧があり、僕は「時間」という言葉を使っています。

 

aliveness(躍動性)の重要性は、survival(生存)としての個体に閉じたものではなく、周りの他者や環境に伝わるものであるところだと考えます。alivenessは個に閉じることはできないのです。そして個人だけでなく意識的な主体が所有することはできないと考えます。(集団であっても管理所有できると考えると簡単に抑圧的な全体主義になるでしょう。)

 

以前にも触れましたが、時計がなかったころは、時間は太陽や月、星の動きや潮の満ち引き、動植物の変化などだったのではと思います。それは実態が伴う、なにかが実際に変化していくプロセスでした。その時、時間は変化するそれぞれのものの数だけあったと思います。

 

そしてそれらは単にそれぞれに閉じた動きをしていたのではなく、それらそれぞれの「時間」が生き生きと動くこと、変化することによって、周りのものにalivenessを与えており、そのalivenessの重なりあい、響きあいとして一個の生きものは存在するのだと思います。

 

閉じたsurvivalとして完結した生命というのは、虚偽なのであって、様々な他者が作り出す「時間」=生き生きとした躍動性=alivenessが重なり響きあった状態が生命の本質であるということなのだと思います。生き生きさの発生は、自己責任論的に一人で管理所有することもできませんし、集団が命令することもできません。ただそれぞれの「時間」が生き生きと動きうる状態を互いに模索することができるばかりでしょう。

 

その生命観に移行した時、動物福祉は「人間がいい仕組み、妥当な仕組みを作り動物に提供してあげる」ような自意識中心主義のものではなく、生き生きとしたalivenessをもらうことを他者や環境に依存している存在であるそれぞれの個体、完結して閉じていない個体が、お互いのalivenessを回復させ、高めるために必要だからということになるでしょう。

 

人間を含めた個々の個体は、他者や環境からもらう生き生きとしたaliveness、それぞれのものが変化していくプロセスである「時間」という生きた響きを与えあい、もらいあうものとして存在しているのだと思います。

 

ここにおいて、倫理というものが、何に対してあるものなのかがはっきりしないでしょうか。倫理は閉じた生存(survival)に対してあるのではなく、それぞれの存在がその響きに依存しあう、本来の意味である「いのち」であり、alivenessをもたらす生きたプロセス、今このとき動いている変化のプロセスである「時間」に対してあるものなのだと思います。

 

癌を発生させるために遺伝子操作された動物の「時間」は、どんな響きとなって周りに影響を与えるでしょうか。監禁され、体の向きも変えられないところで流れた「時間」は、どんな響きを周りにもたらしていくでしょうか。

 

それらはボディブローのように、人間の深層に響いて蓄積され、生きることの感覚を変えていくだろうと思います。人間が得られる豊かさとは、意思によって一律に管理や所有などできないaliveness、「時間」、生きたプロセスの動きの響きを環境から直接的にもらうことによって、与えられるものであるのだと思います。

 

すると、大規模に、一律に人間が「管理」されるような社会の仕組みも、また非倫理的であると感じられてくるでしょう。「効率」自体にはなんのalivenessもありません。「効率」のために、あるものの「時間」が止められ、環境が多重な「時間」の響きあいでなくなるのなら、そこに豊かさや回復などないのです。

 

『モモ』で人々は、時間を貯蓄しようとしました。しかし、個々の生きたプロセスである「時間」を貯蓄したり、後にとっておくことなどできないのです。生きたプロセスはそれぞれ常に今ここにあるものであり、それに応答するしか、生を豊かにすることはできないのです。

 

効率や画一化によって、誰かのプロセス、それぞれにあった誰かの「時間」の動きを奪うことは、生きることのの実質であり、本質的な豊かさである重なりあう響きを減じ、生きること=「時間」を動かすことを停止させることなのだと思います。