以前にこういう体験をした。
夜勤帰りにネットカフェに寄り、マンガを読んでいたが寝落ちした。目が覚めたとき、ここがどこであるか、なぜ自分がここにいるのかもわからない状態が少しの間続いた。
目の前の光景と記憶がつながらない。やがてそれがだんだんとつながってくる。そうだ、ここはネットカフェで自分は夜勤帰りに寄ったのだったと。変わりばえなく飽きた「現実」が戻ってきた。
このときは単に覚醒状態が落ちていただけでまあ面白い経験ではあったが何ということもないと思っていた。しかしあとでだんだんとこの経験の意味を振り返るようになった。
解放や世界との一体性とはこの状態のことではないかと思うようになった。高揚感や幸福感など別にないが、そもそも状況すらわからないため、何かをせねばという強迫もない。
解放や世界との一体性はそれを「獲得」したときに大きな喜びが生まれるようにイメージしていたが、それは圧迫されていたことがなくなった瞬間の一時的な喜びであり、継続的に幸せでたまらないとか、高揚した状態が続くのではないのだろうと思われた。
解放や一体性は、それ自体として感じられるのではなく、ただ拘束や分離感がなくなっただけの当たり前のものとしてあるのだろう。たとえば手首に輪ゴムをきつめにはめて辛くなったとする。その輪ゴムをとったときには解放感や喜びがある。
が、時間が過ぎれば別にそれは何ということでもない当たり前のことであって、殊更に有難がったり喜び続けていることでもなくなるように。それで幸せになるのならば手首に輪ゴムだけでなく、あらかじめあらゆる場所に苦痛があることを想定してそれがないことを喜び続けたらいいとなりそうだが、それは端的にいびつだ。
ここがどこであるかもわからない状態のとき、ここがどこかを把握しようとする感覚はあったが、言葉はなかった。言葉以前の意識状態にいた。言葉が立ち上がる前の状態においては既に解放されており、どこに行く必要もなく、何をやる必要もない。
整体の稽古では、様々なやり方で身体集注という状態をつくることをするのだけれど、身体集中の状態にはいったときは言葉による思考があまりできないような状態になる。ああだこうだと思考に翻弄されたり、あれをしなければならない、これをしなければならないというような思いが入るような隙間がなくなる。
整体の稽古でなくても、たとえば両手を前に出して、右手は正方形を描くように動かし、左手は円を描くように動かすということをやってみるならば、身体集注の状態は感じられると思う。わざわざ思考で右手はこうで左手はこうと細かに意識していられない。むしろ意識と手の動きの粘着を切り離すことができると、右と左が別々に動かせる。そして思考を生む意識は極少化され、気づいているが考えられない状態が続く。
この状態は不自由というよりは、せいせいしていて、いらないことを考えなくていいすっきりした状態だ。常にこの状態であればいいのにと思うが、意識のメモリーを使い尽くしてないとおこらない。ずっと何かをし続けていなければ言葉が戻り、また自分は言葉と思考の支配下におかれ、制圧されてしまう。
要は言葉の問題なのだ。人間は言葉を使っているのではなく、言葉に乗っ取られて支配されているのが実態だろう。身体集注の状態や感覚が動きだす状態のときは一時的にその支配が弱まる。だからしばらく生きていくのならそれにあたっては、言葉による自身の制圧状態をいかに最小化するか、制圧状態をいかに無効化するすべを知るかが抑圧への対抗手段として重要になってくるだろう。
が、あくまでそれもなかなか死にきれないから多分「しばらく生きていく」だろうという想定に対しての緩和策なのであって、別にそれをしたから根本的なことが変わるわけでもないし、そうしなければいけないと強迫的になることでもない。意味はないのだ。意味は言葉から生まれる。言葉がない世界に意味はない。そして人間は言葉が立ち上がる前に既に生きている。
言葉が立ち上がってしまえば全ては言葉の意味の世界に回収されてしまうのだが、言葉が立ち上がる前の状態、一時的に言葉による制圧がなくなっている状態のときには既に本来の状態が回復していると僕は考える。本来の状態はそんな多幸感に満ちたようなものではなく、言葉の規定によってもたらされている拘束や分離がただないだけの「当たり前」の状態であり、達成し到達するゴールのような状態でもないのだ。
そしてその「当たり前」の状態をイメージするにあたっては、焦点が絞られた視野と周辺視野との対比を並べるとわかりやすいように思えた。日常生活において、現実を把握するためにほぼ常に何かに焦点をあてている。
この視覚の焦点とは何かを考えてみた。思いいたったところから先にいうならば、焦点をあてることは、絶え間なく変化し切り取れない世界を止まった記憶の世界に切り替えることであり、時間を止めることであるように思える。
たとえば目の端に本が置かれているが見える。その本に対して何かをしようと思えば、本に視線の焦点をあてる。だがこのときに目の焦点は本とは別のとこにあてながら、一方で本のタイトルが見えるぐらいのところに自分が移動したり、あるいは本を移動させる。目の焦点は本とは別のところに固定しておくなら、本のタイトルは見えているが言葉を読めない状態に気づく。
本のタイトルを読むには、過去の記憶をたどるか、あるいは瞬間的にであれ焦点をうつさないといけない。焦点が周辺視野にとどめられたままであれば、文字を読むことはできない。周辺視野は言葉以前の状態がどのようなものであるかをイメージするのに適しているだろう思えるところだ。
見えるけれど、意味をなさない領域。どんなものが周辺視野に映ったとしてもそれをはっきりと意識するためには、焦点をあてなければいけないはずだ。目の端に危険そうな生物が見えたとする。しかしそれだけでは意味をなさない。何かの予感として感覚されたとしても、焦点をあてて具体化されなければ、対象ははっきりとしない。
そして対象をはっきりさせるということは、既に記憶されたものにつなげることなのではないかと思う。つまり焦点をあてることは過去の記憶を現在に投影することなのであり、リアリティが過去の世界に切り替えられることなのではないかと思える。まだ言葉を獲得していない子どもでも怖いもの嫌なものは記憶し反応するはずだ。自動的に記憶と繋がるのだ。焦点をあてることは見え方だけの話ではなく、現在を記憶の世界に変換する精神的な切り替えを行っているのだと考えた。
一方、周辺視野においては見えていてもはっきり対象化することはできない。言葉を読むこともできないし思考することもできない。何かと何かを意味で分けることはできない。そのために周辺視野は言葉から解放された領域であり、言葉による制圧と記憶の世界への閉じ込められているところから解放された状態なのだ。しかし、言葉がないのでその「解放」の意味もわからず確かなものとして実感できない。
自意識ではっきりと理解でき、実感できるものでないと事実ではないと信じて譲らないならば、これにはなんの価値もない。しかし、生きる苦しみの非常に多くの部分は言葉によって成立している自意識のその完結した牢獄に閉じ込められていることにある。そこでは自分が落ち着ける確かな価値を獲得しなければいたたまれない、絶え間ない意味の強迫にさらされ、さらにはこの苦しみを抜けるためにはこの自意識である自分が変わらなければいけないという強迫まで付け加えられてしまっている。
だがそうではないのだ。本来の状態は達成しなくても既にある。自意識としての自分が変わればいいのではなく、自意識としての自分が後ろにひいた状態が本来の状態なのだ。それは周辺視野の感覚として感じられる。焦点をあてることで過去の記憶が現在に投影される切り替えがおこるが、そこで受け取ったものを「現実」や「真実」だとしてしまい、その「現実」のなかで救われようとするのがそもそも本末転倒なのだ。
言葉以前の領域である周辺視野のリアリティにある何でもなさ、意味のなさ、当たり前さにしがみついて「幸せ」を獲得することはできない。獲得は救いのない意味の領域。獲得ではなく世界観の切り換えの問題なのだ。