先日の投稿でフェミニズムの歴史で繰り返されていたマジョリティによる運動の簒奪と「当事者研究」の問題点および今後おこりうるだろう展開を重ねた。
運動を多数派側や力を持つ側のものに変質させていくことは、もちろん意図的なものもあるだろうが、全く無自覚で自動的なものも少なくないように思う。この自覚のなさは、自分は何も悪いことをやるつもりはないから、とやってしまったたことを免罪し、態度をあらためるつもりはないという開き直りの理由にもされる。
人間が自分にとってより都合のいい環境を構成していくことは、自覚以前のところからはじまるものであり、自覚の有無は何の言い訳にも現状改善にもならない。
「本能的」とも感じられるこのような自動的傾向は、カッコウの生態を連想させる。よく知られているように、カッコウは他の鳥の巣に卵を生む。生まれた卵は、周りの卵より先に孵化して元の鳥の卵を巣の外に押しだす。そしてヒナは自分を別の種の親に育てさせるのだ。
マジョリティによるマイノリティの運動の簒奪と言ったときに、そこでおこっていることは単に内実を奪うだけにとどまっていない。カッコウが自身のヒナを養育せず、自分を別種の鳥に育てさせて繁殖するように、マイノリティの資源をさらに使いながら自分たち多数派のポジションをより確固たるものにする。
マイノリティのためのいい運動だというイメージを使いながら、その名声や支援を自分たち多数派に吸収する。マイノリティの運動というかたちを取りながら実質は多数派のエンパワメントがされると、マイノリティは二重に封じ込められてしまう。
ある運動がマイノリティが権利を獲得していく運動として「ある」のに、実質は多数派のエンパワメントが行われるならば、むしろ「ない」ほうがマシなのだ。
「ない」ならば引き続き異議を申し立てられるのに、社会的に認知されている団体や運動ができたために、社会から吹く応援の追い風はその団体にいくわけだし、世間は自分が動かなくてもその団体がやればいいと思って動くのをやめてしまう。その意味で異議申し立てをはじめたころよりも封じこめられて動きが止められてしまうのだ。
こういうことを人間はごく自然に、意識すらせずやる。だから自覚の有無は関係がない。悪いことをするつもりはなかったとか、いいことをやったつもりというのは何の免罪にもならない。自覚のなさを理由にした開き直りや被害者ぶりはさらに悪質だ。
人はカッコウと同じだ。人間が自覚的になれるというのは現実に向き合うのを避ける欺瞞のためのものだろう。人間は自覚なく自動的に加害と簒奪を行う。そういう存在なのだ。その実態を直視し、その人間観に移行しなければ環境問題も何もすすまないだろう。
生まれたときから何もどうしようとか思わなくても、プランを立てなくても自然な感覚にしたがって周りの卵を押しのけて巣から落とせる。自分が落としたのが別の鳥の卵だとさえ知らないかもしれない。餌をくれる鳥が別種の鳥かどうかすら知らなくても問題ない。
カッコウは他国で搾取されたものが提供されて生活が事足りるこの社会の人そのものでもある。どういう経緯のもとで自分に必要なものがきているのか知らなくてもいい。周りの人と同じく自分に必要なものが提供されるのは当たり前であり、何も気にしない。加えて恥ずかしげもなく自己責任論が唱えられるような環境を作っているところが人間がカッコウをこえるところだろう。
存在の無自覚な加害性およびごく自然に他者から簒奪する自己中心性を前提にしなければ、人間はそのままたちの悪い加害者であり、簒奪者であるのだ。
「当事者研究」においてマジョリティ属性のより高い人やグループは、カッコウのように、自分たちの必要をみたし、悪気なく自覚もなく周りにあった卵を巣の外に押し出すだろう。それが自覚以前のカッコウの「本能」なのだから。当人の「自覚」の有無や「つもり」など真に受けていてはいけない。実態と引き合わすことをしないで、そぶりや言動などの「擬態」をそのまま真に受けてはいけない。それらの仕草は生まれもった武器なのだから。
自身の存在としての加害性、自覚のない簒奪を前提にし、抑圧されている外部に実態をともなった応答すること抜きにするならば、実際的には向き合いは永久に先送りにされる。昔話では弱った鬼を助けて恩返しされることもあるが、元気を取り戻した鬼に食べられるような話もある。身もふたもないが、人間一般はどちらかというと後者なのだ。自身の「鬼」性から目をそむけるなら、その人はそのままで人を食べる鬼になっている。実態として何をしているのか、何をしたのかをよくみて確かめることなく、表面的なそぶりや言動を真に受けてはいけない。