降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

反応点 林竹二と竹内敏晴の「蘇生」

知人にかりている林竹二の「学ぶこと変わること 写真集・教育の再生をもとめて」を読み終わった。教育哲学者、林竹二は兵庫県湊川高校で生徒たちに対して、授業を行った。

 

学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

 

 

部落や人種差別、貧困のただなかにあって荒れていた湊川高校の生徒が、林との関わりのなかで劇的に変わっていく。その表情が写真集におさめられている。

 

林は300校以上の学校で出張授業をした。そのなかで、林自身が驚くような変化を遂げたのが湊川高校、そして尼工の生徒たちだった。教育のあり方に絶望していた林が、この出会いの驚きによって蘇生した。林にもなぜこの2校の生徒にそのような変化がおこったのかわからなかった。なぜ、最も貧しく、社会の矛盾にさらされた子どもたちこそが最も大きな変化をおこしたのか。

 

彼らこそが最も切実に林の授業を求めていた。この2校に共通していたのは、一つは教師のあり方だったという。荒れる生徒をどうにか救いたい、生徒を救うことが自分たちの救いなのだという教師たちがいた。彼らが林を招き、普段なら学校に来ない生徒をなんとか授業に参加させた。

 

林の授業は、教師たちにとっては、自分たちの関わり方の誤り・不足に直面させられるものだった。林は、通常教師というものは、自分が揺るがされる状況を一般人以上に敏感に、遠く離れたところから感じとり、その状況を未然に避けるものであるにもかかわらず、生徒の変わりように涙を流して喜ぶ湊川の教師たちがそのようなあり方とまるで違っていたことを指摘した。

 

教師たちの存在が、社会で虐げられ、かたく閉じていた生徒たちが、人と人しての関わり、変化をおこす最後の通路を守っていたと林は後に気づく。

 

林はまた、演出家の竹内敏晴を湊川に招き、竹内は生徒たちと演劇をつくった。竹内もまた行き詰まりのなかにあった。

 

「私は、25年芝居をやってきた。しかし、これほどなまなましく、というか荒々しく、またこれほどあたたかくというか繊細に、そしてこれほど集中して受け止めてくれたお客というものに会ったことがなかった。今まで何回か自分にとって決定的に重い舞台がありますけれども、客との出会いということにおいて、これほどふかい体験はなかったと思うのです。」

 

 

「労働者にも見せたし、農村でも見せた。そしてさまざまなことを学んだけれども、一たん、今までの芝居はほんとうのリアリティがなくなった、これじゃだめだと思って壊しにかかったときに、新しく出てくる表現方法は、やはり小市民的なあがきにしかすぎないという感じが心の底にわだかまっているわけです。」

 

「それぞれのあがきみたいなものをお客にぶっつける。お客から反応が来る。受けてくれるのはいいけれども、自分と同室のものが反応してくるだけなんです」

 

 

竹内は湊川に通ううちに、ここにほんとうに自分たちと異質だけれど、しかし「一緒の振動」があることに気づいた。

 

「私にとって夢見ていたことが夢でなくて、それこそ現実であって、そこにいのちを燃やすことが根源的なドラマだということを教えてもらった。これで原点に立てた、これから芝居というものにほんとに出発できる」

 

生徒たちは、林らに暴力こそ振るわなかっただろうが野獣のように一部の嘘も妥協もない彼らのリアルをもって林や竹内に対峙した。それが林や竹内を救った。そして彼ら自身も救った。彼らの妥協のなさがなければ、彼ら自身も、林たちも救われることはなかったのだ。

 

林らと生徒たちは、ともに自分たちの知らなかったもの、今まで触れることができなかったものが人間のなかにあることを知った。

 

「人間」であること。僕は今まで特にそのことがつくられるものだと思ってなかった。しかし、人間であることは意思してつくられるものであり、また人間としてあることは意思してつなげられるものなのだということだと思うようになった。

 

一点の反逆をもったもの。それが人間なのではないかと思う。

 

高きから低きに流れるのが自然。強いものが幅を利かせ、弱いものを追いやるのが摂理だ。生物学的人間に他の動物と比べて特別の価値があるとは思わない。同じように価値がある。あるいは同じように価値がない。

 

その一点は、それまでの過去の残響でしかなかったものを、異質なものに変えてしまう化学反応の一点だ。その反応の核を、反応する純度を維持し守り、出会うべきものにつなげていく。それが、一点の反応点である人間が、人間であることを維持することなのだと思う。

 

その反応点は、死にかけた別の人間を共振させ、ときに蘇生させることもできるだろう。