論理的関係「我ーそれ」と倫理的関係「我ーなんじ」 探究の位置づけ
金曜日のジャンル難民学会(仮)発足ミーティングに、『モモと考えるお金と時間の秘密』の著者の境毅さんも来られると聞きました。
境さんからはキッチンハリーナ のサークルで鶴見俊輔の『共同研究集団』を紹介してもらったり、認識するものを利用対象として客体化する(ブーバーのいう「我ーそれ」関係」)論理的関係に対して、それとは逆に対象に対して、主体と主体として出会う倫理的関係(「我ーなんじ」関係)という刺激的な考え方も紹介してもらいました。
アイデンティティ、自分がなんであるかと振り返り、自分自身に問うとき、自分は世界にとって意味ある存在(重要な他者に愛される存在)かどうかが問われてしまいます。
言葉を介して見えるものは論理的関係であり、「我ーそれ」関係であるとするとき、なぜ自分が意味ある存在でなければいけないのかの説明がすっきりとできるのではないでしょうか。
言葉を通して認識するということは、「我ーそれ」関係でものを見るということなので、私が何であるかを問うときは、私は自分自身を自分の知る誰か(重要な他者=世界)にとっての利用対象としてしか認識できないのです。
よって、アイデンティティの変化、自分がどういうものであるかという感覚の変化は、自己像の変化というよりは、世界像の変化であるのだと思います。
DIYが出会い(=世界像の変化)を自分にもたらすための環境調整という「手段」であるならば、その「目的」とは世界像の変化、世界の見え方、感じられ方の変化を自分にもたらそうとする個々の「学び」や「探究」であると言えるのではないでしょうか。
教育哲学者林竹二における「学び」もまた世界像を更新する営みですが、探究は学びがどのようなあり方を必要とするかを示すものだと思います。つまり探究というあり方をとるとき、学びというものが成り立っていくのだと思います。
「出会い」は、世界像が更新される事態そのものです。「学び」は意識的に世界像の更新を遂行しようとする営みであり、「探究」は学びが成り立つための世界との関わり方であるでしょう。
探究はどのような人にも取り戻されていいものだと思っています。
直感的にいえば、在野研究とは、アカデミズムに対するカウンター(対抗)ではなく、オルタナティブ(選択肢)として存在している。そもそも、一八世紀のヨーロッパでいう<アカデミー>とは、大学と対抗的な関係にある、新たな知を切り拓く専門家集団のことを指していた。アカデミズムは元々、大学に飼い慣らされるものではなかったのだ。
荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために 在野学研究者の生と心得』