自分が呼びかける側のときの話の場は「自分にとって必要な感覚やプロセスが動く」ことと「場にいるほかの人のプロセスが動く」ことが重なるように枠組みをきめています。
そのようにすると、早々に疲れたり、または場で何をやっているのかがわからなくなって場自体が虚ろになっていくということが避けやすいと思います。
話をしはじめて、自分がうまく説明できなかったと思ったり、自分自身で話していることのわけがわからなくなったりすると恥ずかしいと思ったり、ちゃんとした内容を話さなければいけないと思うかもしれません。しかしそれが上手にできる人の話が面白いかというと必ずしもそうではありません。
インプロ(即興演劇)の指導者である今井純さんは、即興を面白くやろうとする必要はないし、どうするかをあらかじめ考えてやる必要もないと言われていたように思います。それよりもその状況におこっていること、相手のやったことに「影響を受ける」重要性が指摘されていました。「影響を受けた」応答をすることで自分も思いもよらぬ展開が生まれたり、面白さを狙わなくても見ている人が十分に満足できる「おもむき」がでるそうです。
それを僕なりに解釈して話の場に重ねると、自分を話し上手と認識している人のほうがやりがちなことかもしれませんが、自分の完全なコントロール下にある話などは別に求められていないのです。
朗読などする際にも自分が自分の読んでいるその状況に直面していわば「影響を受け」、自分が受動者として体験させられると、結果的に聞いている人に「伝わる」と聞きます。
話は、感じていることをリアルタイムで探りながら、できるかぎりそれにあう言葉にするようになぞりながら、とつとつで、まとまりもなくでいいのです。その人のなかで動いているもの、どこに行こうとしているのか自分でもまだわからないことをなぞるのです。
そのときに「おもむき」はあります。その人のなかで動いているものが周りの人たちのなかのものを動かします。これは感情についてのことだけをいっているのではなく、そこで知的な洞察もおこります。
動くものが伝わりそれぞれの動きにつながること。そのつながった動きは単なる刺激に対する一時的反応のようなものではなく、それぞれの人がそれまでも動かしてきたものの「続き」を導きます。
もし自分を沢山の植物の種子が埋まった土人形だとすると、外からやってきた動くものが自分に伝わることで、まだ種のままだったものが発芽をはじめ、あるいは芽の段階で時間が止まっていたものがその続きの時間を得て姿を変えはじめます。
種を発芽させるもの、あるいは止まっていた変化のプロセスを動かしていくもの。止まっていたものに、続きの動きを与えてくれるものを「時間」というならば、自分が話の場でしたいことは、それぞれの「時間」をもう一度見つけることです。「時間」をみつけ、それに応答することは、あくせくと自分で考えたり計画したりすることであるよりも、ゆだねることに近いです。
探究的であること、動いているもの、感じているものをよりフィットする言葉でなぞろうとしているときに、いつもの自分はどちらかというと後ろにひいています。自分が「主体的」でありながら同時に一方で自分が後ろにひいている状態があります。
本来的に「主体的」なときは実は受動的なのだと思います。動いているのは実は自分ではなく、プロセスそのものだからです。
マリー・ホール・エッツの「わたしと遊んで」という絵本では、池の生きものたちに自分のペースで関わろうとする女の子が生きものたちをすくませたり、追い払ったりしてしまいます。女の子は生きものたちに遊んでもらえず悲しみますが、じっとしていると生きものたちは向こうからそれぞれなりの関わりをしにきてくれました。
このような「主体性」の感覚が伝わるでしょうか。自分の知っている自分、自分の知っている関わりかたではないもの、そこに自分が開かれる面白さがあります。探究的であるとは、いつもの自分が一旦ひいている状態なのです。探究的であることは、できあがった自分ではなく、プロセスである自分を動かすことです。