降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「回復」や「自己実現」をこえて 

緊急的な状態が過ぎても日常は続きます。緩慢な危機、その後の不自由はそのまま続きます。

 

レールとずれた人は、どこに向かって生きればいいのでしょうか。ある程度回復したとき、放り出されたような気になります。次にどこに行こうとすればいいのでしょうか。

 

 

「順調」なステータス獲得のレールから外れた人は、その後の充実も二番手、三番手のもの、あるいはさらに劣ったもので我慢するしかないのでしょうか。

 

 

パウロフレイレによれば、被抑圧者は抑圧者の価値観を内在化させています。抑圧されている人が憧れるものは、抑圧している人が憧れるものと同じになってしまうということです。

 

それは富裕層でもない人が、非正規雇用の労働者の賃金を低めにしているZOZOの代表を批判するどころか積極的にそのあり方を称賛する様子にも見てとれるかと思います。

 

フレイレは、対話による意識化が、被抑圧者が否認していた抑圧の事実を自覚させ、被抑圧者を解放すると考えます。

 

フレイレは個々の人が自らの閉じた生活空間にとどまるところから、個々の人を集め、社会のありようを自分たち自身でまざまざと目撃する環境を提供し、人々を解放に導こうとしました。

 

フレイレの実践は確かな成果をもたらし、国際的にひろがっていきました。

 

ところで、そんなフレイレの業績と活動の意義を認めつつ、フレイレのやり方、特に意識化というやや強制的な意思の作業にしんどさや違和感を感じた人もいました。

 

無意識のものを意識化せねばならない。この考え方にはどうしても意識化した人が無意識の人を導くというかたちが感じられますし、そもそもフレイレの『被抑圧者の教育学』は、教育者に対して書かれたものでした。

 

別のあり方はないのかと思っていました。できる人ができない人を導くモデルではなく、ピアとして、横ならびの個々人が自分たちを解放し、環境を自ら変えていく存在になっていくことはできないのかと。

 

専門家によってつけられた診断名ではなく、自らの苦労は自分で名前をつけ、仲間とともにその苦労の研究をしていく当事者研究

 

またオープンダイアローグ的な、数年の訓練を受けたピアがグループを作っていくことで、今は専門家まかせになっているようなことが、自分たちで改善できるようになるだろうと示唆している精神科医もいます。

 

別に専門家を否定しているわけではなく、専門家は専門家のやることをやってもらって、できることは自分たちに取り戻すこと、生きることの主体性を自分たちに取り戻すことが重要なのです。

 

水平の関係性をもった人たちが自分たちで自分たちに必要な環境を作っていくこと。特に内在化されたものを解放していくことに僕は関心を持ってきました。

 

そのあり方を可能とするための考え方。それが「時間」ということになるだろうと思っています。

 

回復、成長、自己実現などなど、そういった言葉を使わなくてもいいあり方。それが「時間」を動かすというあり方です。

 

充実は、その人が直感的に感じられる「時間」を動かしていくことで得られます。そう考えると素人であれ、共に自分たちの「時間」を動かすことはできるのです。

 

「時間」を動かしていくことにより、その人はより自分自身を解放していくでしょう。「時間」を動かしていくことは、それ自体が充実であるとともに、自分を解放させていくことなのです。

 

「時間」はまた、個人の根源的な苦しみ、痛みと密接に関係しています。個人はその根源的な苦しみや痛みに反発する力を、自分の生をひらいていくことに使えます。「時間」を動かしていくことは、自分に生きていく勢いをよりもたらしていくことでもあります。

 

そしてある人の「時間」は、その人だけに完結しておらず、別の人の「時間」と連動しています。よって、ある人の「時間」を動かすことが別の人の「時間」を動かすということが成り立ちます。

 

つまりお互いの「時間」が動くことで協働するならば、どちらかが与えるだけになり、どちらかが受けるだけのような、一方的な関係にならずにすむのです。

 

もちろん工夫なしでうまくいくわけではないですが、「時間」の動きを軸に考えることで、それは成り立たせていくことができることだと考えています。

ジャンル難民ミーティングお知らせ 2/8 2/9 2/10 2/22

ジャンル難民ミーティングのお知らせです。

 

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次回、8日のカフェコモンズでの回は、自分のさしおけない関心事、探究していきたいことやそのエピソードをシェアしてもらおうと思っています。

あと、この日は僕が「自分の「時間」を動かす研究」を簡単に発表します。

 

なお、翌日9日19時からは本町エスコーラで矢板さんのテーマである「揺らぎ」に焦点をあてた映像の鑑賞と話しの集まりで探究します。

 

また、2月22日(金)19時〜も本町エスコーラでジャンル難民ミーティング行います。

 

 

あと10日も空いているので、希望者があればちいさな学校鞍馬口で「自分の「時間」を知る」ワークショップ開きます。打診ください。

 

すでに発表したい研究があるという方、自分の周りでジャンル難民ミーティングや「自分の「時間」を知る」ワークショップをやってみたいという方もどうぞおしらせください

 

ジャンル難民ミーティング

2/8(金)19時 カフェコモンズ(大阪)

2/22(金)19時 本町エスコーラ

 

矢板さんの揺らぎの研究 「揺るがナイト」(スピンオフ会)

2/9(土)19時 本町エスコーラ

 

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希望者募集中 自分の「時間」を知るワークショップ

2/10(日)14時 ちいさな学校鞍馬口

 

 

 

 

 

見えてくる世界を変える

言葉が変わればものの見え方、感じ方は変わってきます。

 

自分のなかにある自律的なプロセスを「時間」という言葉に置き換えはじめたここ最近、世界の把握のされ方が変わってきています。

 

空間的思考、「時間」的思考、空間的な移動、「時間」的な展開、というような言葉を使ったりしましたが、「時間」は思考ではないなと思ったりして、整理しています。

 

ある位置からある位置へ意思で移動しようとする空間的な思考の堂々めぐり、空間的思考での把握による停滞があります。空間的思考は実体でないものを実体と勘違いする思考、詐欺的な思考である一方、プロセスとしての「時間」は実体であり、疲弊を最小限に抑え、むしろ活力をもたらしさえします。

 

空間的思考の弊害は多大であるので、それを緩和するために、自分におこるプロセスを「時間」ととらえるあり方を整理しています。

 

よくあるのは、空間的思考の「面倒くさい」と実際との乖離です。

 

たとえば、一人暮らしで自炊しようとしたとき、昨日の残りものがあるとします。それを温めるだけでも一食として足りるということがあって、そこで空間的思考が「手間をかけるのは面倒くさい」と介入してきます。「面倒くさい」が自分の本当の思いであり、気持ちだと錯覚します。

 

しかし、自分の経験上は、洗い物などが増えたとしても、ちょっとでも一品作ったり、新しい具材を加えたりすることで、一食の体験が自分に対するもてなしになり、新鮮な喜びと次に向かっていくリズムがくる一方、「面倒くさい」というのは自分に対するおざなりな対応で、そのおざなりな扱いに対して、テンションが下がり、より気持ちのリズムが停滞してしまいます。

 

つまり、あれやってこれやってという空間的な思考が浮かび、何かが達成されていない状態から達成した状態へ意思によって移動させることを面倒くさいと感じる思考があって、それは確かに言葉に置き換えるなら「事実」であるのだけれど、その思考を「本当だ」と真に受けて従っていると、自分を元気にする機会も自分を疲弊させる機会になってしまいます。

 

「時間」という捉え方は、空間的思考の上で生まれた虚としてのリアリティではなく、実際の身体の感覚や求めを実のものとしてとらえ、それに応答し、空間的思考に支配されて動きが取りづらくなっている状態から、実体としてある流れを取り戻し、自分を取り戻していく捉え方だと思っています。

 

また先の料理の例に戻りますが、自分に対する「もてなし」は、空間的思考が「面倒くさい」と捉えたとしても、実際には、活力を増やしていき、世界に対する信頼感を増していくために身体が動こうとしているのであって、それは間違いない自分の求めです。

 

雑な空間的思考で無理なやり方に飛びつかず、自分のなかにある感覚、動こうとしている感覚が自然に流れだし、動きだすにはどうしたらいいだろうという、プロセス中心思考で取り組み方を見出していけば、そこに取り組むこと自体が喜びや活力をもたらすと思います。

 

よくある「本当の自分」というような言葉では、空間的思考と実際のプロセスとしての求めが区別しにくいのではないかと思うのです。そこで言われる「本当の自分」というのは、自律的に動き、展開していくための整えを待っている「時間」と位置づけられるでしょう。

 

それは、自意識としての自分ではなく、動こうとしている第三者である「時間」がいわば「本当の自分」であり、「実体の自分」であるということでもあります。「時間」を中心にして世界を捉えていくと、紛らわしい言葉を「時間」という実体にフィットさせた実際的な言葉に変換していくことができます。

 

そのように言葉を換えていくと、世界は今までとは別の様相をもって感じられてくると思います。

なぜ日本の社会に人権がないのか

去年8月からはじまった芸術実践と人権。1回だけどうしても行けなかったですが、残りの8回と講義の後のゼミはとても充実する時間でした。

 

www.kyoto-seika.ac.jp

 

人権という言葉が自分にとってリアリティを持ったのは、ここ10年ぐらいではと思います。

 

空虚な、欺瞞的なスローガンかなと思っていた「人権」。

 

それが変わったのは、人間の肯定的変化、回復には、身体的な安全と、自分が大きく揺れても大丈夫だと思える、信頼できる他者がいる環境、そして他の誰のようでもないこの自分というニーズをもった一人の個人としての尊厳を周りから提供されることが必要なのだと知ってからです。

 

信頼できる環境はまだしも、尊厳という言葉は馴染みのないものでした。しかし、相手に尊厳を提供をすることを抜きにした「尊重」は実のところ同調圧力にすぎないのです。自分は相手は別の価値観を持った、別の存在であるとお互いに自由を与え合うとき、はじめて人は人を尊重していて、その時、人は自分の「時間」を動かしていく踏み出しができる基盤を持つのだと思います。

 

尊厳の提供は人権から欠かすことのできない条件だと思います。

 

では今の日本の社会で、尊厳が日常で提供されているでしょうか? 身体的、社会的な安全だけには鋭敏かもしれませんが(それも分野によりますが。)、そのためには同調圧力は当然のように行使されます。善意(のつもり)で相手にみんなと同じようにこうしろとせまる同調圧力は、道徳としてさえ受け取られていると思います。

 

お互いに尊厳を提供するという概念は、一般的にはまだないのでしょう。組織において、力がある現体制の「運営」より人がどのように扱われるかのほうが大事だろう、と思う人は少数派です。

 

明らかに異常な死亡率の高さをもつ外国人技能実習生の制度、入国管理局の凄惨な人権侵害に対して、世論にさほど大きな反発がないのは、多くの人が、自分も同じような、人にもとる扱いを社会から受けているのが常態だからだと思います。

 

自分が不利になるかもしれないと思って、権力の強い人や組織が何をやっても見て見ぬ振りをするのに、生活保護を受けている人には苛烈なバッシングをするのも、劣ったものと思うものに対して、自分が上からやられていること、押し付けられていることを課したいと思うような心になってしまうからです。

 

文化的な存在としての「人」の概念がこの社会ではまだ一般的ではないのです。「人」としての基本的人権が提供される経験がないし、人権の侵害が社会の常態なので、基本的人権が提供された状態がどんなものなのか、感覚したことがないのです。

 

「人権」が守られる場とは、安心と安全、信頼と尊厳が提供される場です。まずは多くの人が、そのような場がどういう場であるのかを体験することから、人権侵害状態の改善がはじまるのかと思います。

 

 
◆人権に関する過去記事

kurahate22.hatenablog.com

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

ジャンル難民:探究の相談はじめます

<ジャンル難民:探究の相談はじめます>

 

ジャンル難民(自分の感覚で該当すると思えばOK)が自分の気になることを探究する時にどこからどうやってやっていくか、動き出しにくいと思いますので、探究の相談の受付をはじめます。

 

ジャンル難民の集まりは、それぞれの探究をすすめるのに必要な刺激を得たり、必要なものに出会うという趣旨があります。

 

そして、個々人の探究とは、それぞれの個人には動こうとしている「時間」(プロセスと言ってもいいのですが。)を動かしていくことともいえるのではないかと思っています。

 

ですので、ジャンル難民の集まりの存在意義は、個々人の「時間」を動かすことに寄与することであるとも思います。

 

今まで、3回のミーティングを行い、まだ色々な場所でやっていきたいと思っていますが、そこでとても重要だと思っているのがスピンオフ(派生のもの)として生まれてくるものです。

 

僕は、本当に豊かなもの、持続的なものはこのスピンオフから生まれてくると考えています。よって、ジャンル難民の集まりや発表の場は、それ自体で目的を達成しようとしているのではなく、豊かなスピンオフを生むための媒体であるという位置付けです。

 

そういう考えなので、集まりのなかででた話しに興味を持って、あ、じゃあこんなことしてみたいねという「企画」(ほんの2、3人規模の企画でも十分。)があらわれ、それを面白がって楽しむということに大きな意義を感じています。

 

みんなが集まる場は、多くの人に出会ったりする利点があるのですが、一方で個々人の「時間」をすすめるには、そういうちいさな集まり、一時的な集まりを勝手につくっていくほうが、「時間」が自由に生き生きと動いていくだろうと思います。

 

今もそういうスピンオフの集まりの案があるのですが、僕が知らないところで実はこう考えているのだけれど、というような案や思いがありましたら、探究の相談にあわせてどうぞご相談ください。

なお、今後のジャンル難民の集まりは、2月8日(金)19時カフェコモンズ(大阪)、2月22日(金)19時本町エスコーラ(京都東山区)です。

「時間」の感覚を得ることの重要さ 

ジャンル難民ミーティング ワークショップ、<「時間」のすすめ方を知る>終了しました。

 

自分のなかにある生きたプロセス、展開し、動こうしているプロセスに「時間」という言葉をあて、感覚的にとらえられるようになると、頭は身体へ、思考は感覚へ、「いつとも知れない先」は「今ここ」へと戻りやすくなります。

 

「時間」を感覚的に使えるために、まずヤフー記事「時間が止まった私 冤罪が奪った7352日」と「沈黙ー立ち上がる慰安婦」を紹介しました。

 

news.yahoo.co.jp

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

大きな不幸に見舞われたり、必要な体験ができないままでいたり、大切な何かを失った人の「時間」は止まります。「時間」が止まったとき、世界の見え方、感じられ方、生きている感覚は、その止まった時のままになっています。それは人に耐えがたい苦痛や大きな違和感をもたらします。

 

(物語において、往往にして不死者がその生に苦痛を感じるのは、その不死が、循環し更新され続ける生命なのではなく、時間を奪われ変われないもの、止まった時間として停滞するものとしての不死だからでしょう。生命とは、動きつづけ、変わり続ける過程に対する名前だからです。)

 

一方で、「時間」はではどのように動きだすのでしょうか。止まった時間としての「わたし」は、自分の外の何かに関わることによって、変化更新のプロセスを持つことができます。

 

しかし、自分の外であれば何であってもいいかというとそうではありません。変化更新のプロセスは、植物の種のようです。自分のなかにある種に応じたものしか、反応はおきません。

 

種は、あるものは水にしばらくつけないとなかなかでなかったり、あるものは一定以上の温度がないと動きだしません。また発芽にかすかな光が必要なものもあり、むしろ光がいかないぐらいに埋まってしまったほうがいいようなものもあります。

 

それぞれの種に応じて、環境を整えて必要なものを提供することによって「時間」は動きだします。種が芽をだし、生長し変化していくことで、「わたし」の目の前には今まで見えていなかった風景があらわれ、新しい感覚が訪れます。

 

一方で、種としての「時間」が求める条件は厳格で、これぐらいいいだろうと思うような誤差も許さず、うんともすんとも動かないようなこともあります。

 

自分として生きる充実とは、自分のなかにある固有の種に時間を与え、変化させていくことであると思います。種としての「時間」は1つだけでなく、100個あるかもしれませんが、自分にとって特に重要な、欠かすことのできない「時間」(=種)もあります。その「時間」を動かすことによって、生きることが展開していくような「時間」があります。

 

それは鶴見俊輔の言葉で言うならば、「親問題」に関わる「時間」でしょう。親問題は、自分の最も根源的な問い、自分の生きる理由を決めるような、自分が生きていくなかで捨て置けない問題です。それは自分という意識が生まれたときから背負う苦しみであり、同時に自分が生きることを展開させていくときの根源的な動機となり、力をもたらすものでもあります。

 

しかし、そのような動機を意識化し、言語化することはなかなか難しいことです。

 

パウロフレイレは、被抑圧者が自分の抑圧状況をおかしいと思わず(自分自身を抑圧しているからなのですが。)、埋没している状態からその抑圧の存在を「意識化」すること重要であると繰り返し述べていますが、フレイレは無自覚・無意識の状態から意識される状態に「空間的」に移動するような語り口をしています。

 

この「空間」的な移動という捉え方が曲者のようで、この捉え方は、自意識の意思的な操作を前提としており、疲弊的で、地(身体感覚)に足のつかない思考、現実に齟齬をきたす思考を生み出しやすいものです。意思の使用、意思による直接的なコントロールが疲弊をもたらすものであり、自然なプロセスをむしろ阻害するものであることは、身体を使う領域ではよく言われていることであると思います。

 

あるものをある位置から別の位置へと動かす、動かす必要があると捉えるのが「空間」的思考ですが、そのとき、何によって動かすかというと、それは疲弊をもたらす意思ということになります。

 

「空間」的に捉えず、「時間」的に捉えるとそれが変わります。「時間」とは植物の種のように条件を与えれば自律的に生長し展開していくものです。変化のプロセスは、意思によってではなく、それ自身によって展開するので、意思が引き受けていた過剰な重さはなくなります。むしろゆだねの感覚が生まれ、自意識は楽になります。その結果、エネルギーが増え、できることが増えます。

 

「空間」的に捉えるとき、まずゴールが設定され、そのゴールへ向かうべく(遠い)道のりが意識されます。それは疲弊的です。一方、「時間」的に捉えるなら、ゴールではなく、今ここにある感覚、しかもどこかへ動こうとしている感覚に意識が向きます。そして、動こうとしているものに応じ、その動きに乗っていくことができます。動きは展開し、やがて何かのかたちとなっていきます。

 

ミヒャエル・エンデ『モモ』の掃除夫ベッポ爺さんは道路を掃除するとき、ゴールを考えずに目の前のそこを楽しく没頭できる状態にすると、どんなに大変に思える仕事も気づけば終わっていると言います。

 

偉業といわれるものの少なからずが、偉業自体を達成しようとして達成されたのではなく、そういう意識はなかったのだけど、あることに熱中していて派生的に達成されたということがあると思います。それは、むしろゴールを見ないやり方だったからこそ、いい状態が維持され、結果として達成がおこったとも考えられるのではないかと思います。

 

さて、今回のワークでは、自分にとってすておけない関心事、問題意識に加え、その問題意識が生まれたエピソードを紹介してもらうということをしました。生きた感覚、そしてその流れというものを想起し感じることを重視しました。想起し、感じることは「時間」を動かす行為でもあるからです。

 

焚き火をすると、薪は一度に全て灰にはならず、燃え残りがでます。それをまた火の中央に持っていったり、細かくなった炭に空気を当てるためにかき混ぜたりします。一度燃えているものなので、燃える力はあります。

 

ワークは、もともと燃えているものに対して、その燃焼を助ける作業です。火の中央に置いたり、空気をあてることで状態は確実に進展しています。「時間」は目に見えにくいプロセスです。ですが確実に移行しています。直ちに意識化、言語化する必要はなく、それらができていないからといってがっかりする(すると火の勢いは落ちてしまいます。)必要もないのです。

 

もともと火がついているものの燃焼を助ければ、意識で明瞭に把握していなくても、その分だけ進んでます。意思を使用しすぎて疲弊することを避け、無理なくただ「時間」を進めていくということが重要です。この感覚を得ると、停滞していると思われる状況に対して、疲弊や絶望を伴わず、淡々と「時間」を動かしていくことができます。

 

自分のなかで、生きているもの、動こうとしているものに気づき、その求めに気前よく与えること。そのほうが結局は、疲弊せず、活力は満ちてくるのです。

 

今の自分という場所から、あるべき姿という場所へ移動せねば、と「空間」的思考に陥ると疲弊します。そこにはもともと動こうとしているものがありません。「空間」的思考でやりすぎると反動がおこって、スタート以前に戻ったりします。あるいは移動したと思っていたけれど、実は自分はスタートから一歩も動いていなかったということに後で気がつきます。

 

一方で、動こうとしているものに気づき、出し惜しみせず、求めに応じていると、「時間」はその分確実にすすんでいて、その展開は元にもどることがありません。実際の「効率」はこちらにあるように思えます。

 

感じること、そして感じているものが動くようなことをすること、それを中心にし、軸にすると「時間」が動きだします。自分が進むためには、何か特別の解決方法を編み出さなければいけないのではなく、ただ、今の「時間」が動いていくことをそのたびに提供していけばよく、そうするとやがてどこかにたどり着きます。

 

「空間」的思考から「時間」的思考へ移行すると、意思に縛られていた心はその分解放され、圧迫は減ると思います。

 

また「時間」は生きているものであるので、周りの人にも伝わります。実際に人に会い、誰かの「時間」を感じることは、自分の「時間」の動きに連動しています。

 

自分の核心的な関心。差し置けない問題意識。それらは自分のなかに動こうとしている「時間」があるととらえることもできるでしょう。探究とは、つまるところ、自分の「時間」を動かそうとする行為であるのではないかと思います。探究と「時間」は密接な関係を持っています。

 

そして、自分の「時間」を動かすだけでなく、周りの人の「時間」が動いていくと、さらに自分の「時間」が動きやすい環境が形成されていきます。お互いの「時間」を動かすことを助け合う環境を育てていくのが、ジャンル難民の集まりの重要な趣旨です。

精神看護1月号

国分功一郎さんと斎藤環さんのシンポジウムの様子が掲載された精神看護1月号を手に入れました。友人の山口純さんが、以前SNSの投稿でモノを修理すること、現代の責任とはなんであるかと書いてあったのを思い出しました。

中動態の考え方において、主体ははじめからあるのではなく、かかわりの中で形成されていくものとされているようです。

 

10年ほど前に、高速道路建設が決まった西山での西山ピクニックという場の弔いのようなピクニックに参加しました。廃村になった大見という村をもう一度再生しようという大見新村プロジェクトで行われた大見新村ニュー祭りでは、人間が鹿になる演劇がありました。

 

それらは、かかわりの中で、新しい主体を形成していく営みとしてあるのかもしれませんね。

 

モノとの関わりにおいては、新しい主体は、関わることによって形成されてくるので、いきなり完成品を渡されてしまい、過程を奪われると、人は新しい主体へ変わっていけないということにもなるかもしれません。それは疎外のあり方の一つでしょう。

 

壊れたモノがまた直されるというのは、主体の形成ということに加えて、モノにとっての奪われた文脈がまた取り戻される、生きた世界のなかに戻る、ということでもあるのかなと思いました。それは回復ということの本質的なかたちかもしれません。

 

奪われた文脈を回復させ、わたしたちの世界に再び招き入れられること。木村敏は、治療とは「わたしたち生活者の仲間になること」というふうに言っています。モノに対して修理するという関わりを通して、関わる人はモノがまた生きた世界のなかに戻るという認識を通して、自分のなかにある世界に共有されない部分が世界の一部として現れるという、予言的な体験、未来の体験をしているのかもと思えました。

 

プラトンの中に「アルキビアデス」という対話編があります。その中でソクラテスが「使う者と使われる物は別だ」という話をしています。

例えば「靴職人はナイフを使う。ナイフを使って革を切るわけです。よくわかる話しなのですが、じつに興味深いのは、ここで話しをやめておけばいいのに、プラトン =ソクラテスが議論をさらに次のように深めてしまうところです。

 ソクラテスはこう言うのです。「しかしアルキビアデスよ。靴職人は靴を作る時に、ナイフだけではなくて、靴職人自身の手も使うのではないかね」。

 途端に議論がおもしろくなる(笑)。靴職人とナイフだったら、使用関係において使う者と使われる物が別であるのは明白です。しかし、靴職人が自分の手を使うとなると、「使う者は何で、使われる物は何?」となってしまうわけです。

ギリシア語では「使う」はクレースタイという動詞によって表現されますが、この 方言は中動態に活用します。僕らの常識からいくと、誰かが何かを使うのだから、能動態に活用するような気がするわけですが、どうやら「使用」にはそれとは異なる意味があるようなのです。

さらに興味深いのは、この動詞が目的語を対格でとらないということです。対格というのは直接目的語を示します(たとえば「use it という文におけるitは直接目的語です。ギリシア語などの言語で ご対格に変化させて、その格によってその語が直接目的語であることを示すのです)。

この動詞の目的語は、間接目的語を示す与格や「の」を意味する属格に置かれるのです。 自動詞クレースタイは、使用の関係が、主体(主語)があらかじめあって客体(直接目的語)をコントロールするのとは異なった関係であることを示唆している――アガンベンが『身体の使用』 (みすず書房)という本の中で、そのような実に刺激的な話をしています。

言い換えると、主体(主語)はあらかじめ存在しているのではなくて、使用関係の中で、何かを使うために、それを使う主体として構成されるということです。たとえば車椅子を使う時、あらかじ め存在している自分が、そのままで車椅子をコントロールしようとしてもできないと思うんです。車椅子を使うためには、車椅子を使う主体に自分が変化しないといけない。その意味で、使用は支配 と対立します。支配は主体(主語)が客体(直接目的語)をコントロールすることです。使用において は、主体と客体が相互作用の中にあり、主体は変容するし、客体を思いのままにはできない。

先ほどの靴職人をめぐるソクラテスの議論ですが、そこではまさしくクレースタイという動詞が 話題になっています。プラトンがここで、使用関係をめぐる主体と客体の関係に気付き、使用とは、 使う者が使われる物を支配することではないという上記の議論に気付くことも不可能ではなかった ろうと思います。

しかしプラトンは、なんとしてでも使用関係を、使う者と使われる物の区別の上に基礎づけよう とします。そして最終的にはこう言うのです。 人間は魂である。魂が使う者であり、身体が使われる物なのだ、と。 これこそ、クレースタイという中動態が抑圧され、魂と身体の二元論が打ち立てられた瞬間であ ろうと思います。プラトニズムとしての哲学の成立の瞬間です。