降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

人という約束

人でなしという言葉があるということは、生物学的な人間でも人じゃなくなるということだと思う。人である時というのはどういう時なのか。人らしくという時はどういう時なのか。

 

人というのは、文化的な構造物だと思う。

 

自然状態は基本的には強いものが弱いものに対して圧倒的な影響力を行使する。押しのけて幅をきかせる状態が放っておかれる。でもどんな強いものもちょっとしたバランスの崩れですぐ悲惨な状態になる。加えて自然状態では何か苦労したからといってそのまま報われるわけでもない。

 

意味とは、何かに対する有用性のことだと思うので、何かをしたことが必ずしも結果を生まない自然状態では、人は無意味な空間に放り出されている。今日頑張ったことが明日につながらない。裏目にさえ出る。

 

そんな無意味さと不条理さに対して、反逆してつくり出したのが人という文化なのだと思う。人と人の間では、今日やったことが明日報われるようにする。惨めな状態にならないように、そして惨めになってしまったときはお互いにそれを救おうとする文化。

 

だから人というのは、約束なのだと思う。強制もなく、定義もされず、何も言わなくても現実にいつも潜在している無意味さ、不条理さ、惨めさからお互いを守ろうとする約束。

 

そして自分がそれと思うときに自分から果たすだけの約束だ。