降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

なぜ日本の社会に人権がないのか

去年8月からはじまった芸術実践と人権。1回だけどうしても行けなかったですが、残りの8回と講義の後のゼミはとても充実する時間でした。

 

www.kyoto-seika.ac.jp

 

人権という言葉が自分にとってリアリティを持ったのは、ここ10年ぐらいではと思います。

 

空虚な、欺瞞的なスローガンかなと思っていた「人権」。

 

それが変わったのは、人間の肯定的変化、回復には、身体的な安全と、自分が大きく揺れても大丈夫だと思える、信頼できる他者がいる環境、そして他の誰のようでもないこの自分というニーズをもった一人の個人としての尊厳を周りから提供されることが必要なのだと知ってからです。

 

信頼できる環境はまだしも、尊厳という言葉は馴染みのないものでした。しかし、相手に尊厳を提供をすることを抜きにした「尊重」は実のところ同調圧力にすぎないのです。自分は相手は別の価値観を持った、別の存在であるとお互いに自由を与え合うとき、はじめて人は人を尊重していて、その時、人は自分の「時間」を動かしていく踏み出しができる基盤を持つのだと思います。

 

尊厳の提供は人権から欠かすことのできない条件だと思います。

 

では今の日本の社会で、尊厳が日常で提供されているでしょうか? 身体的、社会的な安全だけには鋭敏かもしれませんが(それも分野によりますが。)、そのためには同調圧力は当然のように行使されます。善意(のつもり)で相手にみんなと同じようにこうしろとせまる同調圧力は、道徳としてさえ受け取られていると思います。

 

お互いに尊厳を提供するという概念は、一般的にはまだないのでしょう。組織において、力がある現体制の「運営」より人がどのように扱われるかのほうが大事だろう、と思う人は少数派です。

 

明らかに異常な死亡率の高さをもつ外国人技能実習生の制度、入国管理局の凄惨な人権侵害に対して、世論にさほど大きな反発がないのは、多くの人が、自分も同じような、人にもとる扱いを社会から受けているのが常態だからだと思います。

 

自分が不利になるかもしれないと思って、権力の強い人や組織が何をやっても見て見ぬ振りをするのに、生活保護を受けている人には苛烈なバッシングをするのも、劣ったものと思うものに対して、自分が上からやられていること、押し付けられていることを課したいと思うような心になってしまうからです。

 

文化的な存在としての「人」の概念がこの社会ではまだ一般的ではないのです。「人」としての基本的人権が提供される経験がないし、人権の侵害が社会の常態なので、基本的人権が提供された状態がどんなものなのか、感覚したことがないのです。

 

「人権」が守られる場とは、安心と安全、信頼と尊厳が提供される場です。まずは多くの人が、そのような場がどういう場であるのかを体験することから、人権侵害状態の改善がはじまるのかと思います。

 

 
◆人権に関する過去記事

kurahate22.hatenablog.com

 

 

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