降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

1/20 ジャンル難民ミーティング ワークショップ「時間」の進めかたを知る

今回は「時間」のすすめ方を参加者で探究します。

 

ミヒャエル・エンデの「モモ」で時間泥棒に奪われた時間とは具体的には何だったのでしょうか。全ての時間を効率のためのものと考えることによって、何が失われたのでしょうか。

 

 

「時間の流れは みんなに1個ずつあって とまらない」芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行

 

 

時間泥棒は、時間を移動したり、交換したり、蓄積したりすることが可能なものとしました。そのように扱えるものは死んだ時間です。お金としての時間、といってもいいかもしれません。その結果として生きた「時間」はむしろ停滞したのです。

 

 

境毅さんは著書の『「モモ」と考える時間とお金の秘密』において、モモにおける「時間」の意味は普及した岩波の訳の「生活」ではなく、「いのち」とするのが妥当ではないかと指摘されました。

 

 

「いのち」を生命を所有している状態と考えるなら、私はその所有したものをいかに意思的主体として有効に使うかという思考が導かれるでしょう。そこでの主体は、コントロールするものとしての「わたし」です。

 

 

そこでは、潜在的な資源と能力をいかに引き出し、活性化し、この世界からより多くを享受するかが求められそうです。ですが、その思考はきらびやかな一握りの成功者をもたらすかわりに、そうでない多くの人を疲弊に導いているのが現状ではないでしょうか。

 

 

自分を管理しつくし、「自己実現」に向かうこと。何を達成したかが生きることの成績証になるかのように思わされること。そのような考えはむしろ生きることを萎めさせ、減退させていないでしょうか。

 

 

国分功一郎さんが『中動態の世界』を著し、「意思」というものの使用や過評価は、逆に状態を停滞させているのではないかという認識も徐々に広がってきました。

 

 

「わたし」がやる、「わたし」がやったら世界が変わっていくと考えるのは疲弊的です。そうではなく、自律的なもの、動き、展開していこうとする自律的なプロセスがまずあり、「わたし」はその主体に依存しており、そこに導かれる存在なのだと考えます。

 

 

「いのち」とは自律的に変化し、展開しようとしていくものです。そこには、止まらずに動き、物事を変化させていく「時間」というイメージ、「時間」という言葉がフィットします。

 

 

自律的な主体である「いのち」の求めを感じ、応答していくことが「わたし」の役割であり、主役は「いのち」です。それはロウソクに火がついている間というようなただのオンとオフのイメージではなく、種から芽が出てやがて木になっていくような植物のイメージです。

 

 

自分の「いのち」である植物はどんな種類のものであって何を求めているのか。求めはそれぞれの「いのち」によって違います。

 

 

意思的な主体、止まった時間としての「わたし」はその「いのち」に応答することによって導かれ、新しくなります。

 

しかし、ひまわりに憧れ、ひまわりを育てようとしても、その「いのち」がひまわりでなければ、「時間」は動かず、「わたし」は疲弊していきます。

 

 

「わたし」とともにある生きた「時間」。それは常に動こうとしています。自分の「時間」とはどのようなものか。「時間」としての「わたし」にどのように着地し、共にあれるのか。それを探っていきましょう。

 

日時 1月20日(日)14時〜18時ごろ

場所 ちいさな学校鞍馬口 京都市北区新御霊口町285ー151

 

 

ジャンル難民ミーティング 今後の予定

自分の核心的な興味に近づき、それを探究していく探究会、ジャンル難民ミーティングを行なっていきます。

 

近いところでは、1/20(日)14時から北区のちいさな学校鞍馬口で行います。その後、2月8日(金)19時〜カフェコモンズ(大阪)、2月22日(金)19時〜本町エスコーラです。

 

次回、1月20日14時からの回は、いつもより時間をとって、「時間」の進めかたを探究するワークショップを行います。

 

自分の核心的な関心、テーマに近づいていくと、自分の「時間」が動きだします。探究は自分の「時間」を動かしていく営みです。探究的に世界に触れ、関わっていくことで、世界の見え方と関わりのあり方が更新されていきます。

 

今回はそれぞれの「時間」を動かすということをテーマにして、時間の動かし方を探究する時間にしたいと思います。ジャンル難民ミーティングにまだ参加したことがない方も、参加可能です。

 

 

日時:1月20日(日)14時〜18時ごろ

場所:ちいさな学校鞍馬口 Google マップ

 

 

goo.gl

 

cafe-commons.com

 

www.escola-kyoto.com

「人」と「負けること」の関係 松岡宮さんの謝れ職業人

僕の理解では、パウロフレイレは被抑圧状況からの「移行状態」を人の人たる特性であるとしています。その移行状態にない時に、人は特に人たるものでもないのです。人の体を持っていたり、何かを達成したり、どこかの文化圏に所属するからといって自動的に人たるわけではないのです。


少し似たように、僕は人がどこにいるのだろうかと考えていて、人は勝利するほうにはいないと思うようになりました。先のフレイレの話しと同じく、この時、「人」は物理的な存在ではなく、加えて「移行状態」でもありません。人は負ける側にいます。それは与えるということでもあります。

 

しかし、自分が「与える」から負けているということにはなりません。この社会で、「与える」「提供する」人は、与えられる人より「えらい」人です。インプロ(即興演劇)などでいうところの、「ステータスが高い」人です。「支援」として与えると同時に、相手は自動的に「被支援者」なります。そのことによって自分が「支援した」というステータスを得ることは、負けることではなく、勝つこと、奪うことであり、それを避けることができません。


奪うこと抜きに助ける人になることなどできません。そのことに無自覚であれば、より一層奪うことになるでしょう。このことを端的に表現したのが松岡宮さんの「謝れ職業人」だと思います。

 

謝れ職業人   松岡宮

「ああ、今日も会社に泊まりこみで仕事だよ」

疲れた声で言う

職業人は

謝れ

全ての「だめなヤツ」に

細い声で

謝れ

「ああ、忙しい忙しい」

朝早く出てゆくひと

乗り換えの駅で朝食をかっこみ

後続列車に乗ってゆく

職業人は

謝れ

手をついて

謝れ

「俺はやっとやりがいを見つけた」

なら

謝れ

仕事にきちんと就くことは罪なのだから

それをきちんと謝罪せよ

そう、あなた

今日も働いて働いて

上司に怒鳴られてもがんばって

同僚とのおしゃべりで気晴らして

ときどき仕事でも嬉しい事があるんだよ・・・

それなら

足下を見ろ

そこに横たういくつもの白い腹を見ろ

白いブヨブヨした腹を踏みつけてサーフィンしているあなた

イエイ♪ゴーゴー♪しているあなた

内臓破裂の暖かさに包まれている

あなたは

すべての弱いものに謝罪せよ

あなたの強さを謝罪せよ

仕事

 仕事

  仕事

取引

 連絡

  申し送り

あなたがそうやって一生懸命生きる事で壊してきた

そしてそうやって一生懸命働くことで壊している

すべてのダメなもの弱いものアホなもの

恥ずかしいもの腐ったもの古くなったもの

謝罪せよ

 あなたが彼らの年金を払ってやることに対して

 謝れ

 あなたが彼らの医療費をまかなうことに

 謝れ

 あなたが彼らを保護しいたわり慰めることに

 謝れ

3月15日くもり

自分がたまたま頑丈であり

毎朝おはようと笑って出かける

そのことに

ごめんな

さい

 

 

 

松岡宮さんのHP 

po-m.com

 

ある禅僧が乞食にゴザ(だったか)を与えると、乞食はなんの笑顔も見せず、黙って受け取りました。禅僧が「お前は嬉しくないのか」とたずねると、乞食は「お前は俺にゴザを与えられて嬉しくないのか」と返したというエピソードを聞いたことがあります。

 

禅僧もお金が有り余っているわけではなかったでしょう。そういう意味では、ゴザをあげるということは痛みでもあります。その痛みにおいては、彼は純粋に与えているといえるのかと思います。と同時に、与える人と与えられる人という構図をそこに生むことは、奪うことです。それに追い討ちをかけるように「嬉しくないのか」とたずねることはより更に奪うことでしょう。

 

与えられる乞食にとっては、モノの豊かさ以上にその構図にあてはめられることによって、自分の意味を奪われることのほうが苦痛です。

 

乞食は禅僧から一本取ります。禅僧はその負けの痛みにおいて、乞食に与えたといえるでしょうし、乞食はその勝ちという一点においては、奪うものになったのだと思います。

 

間違ったことや抑圧に最初に立ち向かった人は報われず犠牲になることが多いと思います。その人に賛同し、その後に続く人は、立ち向かって犠牲になった人たちの成果を得ることができます。しかし、成果を享受できなかった人たちはどうなるのでしょうか。成果は享受した人たちは、その犠牲者を悼み、たたえますが、犠牲は取り返しがつきません。

 

成果を享受するためにやるのではない人は負ける人です。そして僕は負けるというところにおいて人がいると思います。

 

負ける人が育てた果実を後の人たちは食べることができます。果実をもらい、なお勝とうとすること、そう願わずにいられないということがどういうことなのか、そこから推して知ることです。

探究の民主化 ジャンル難民ミーティングの位置づけ

ジャンル難民という言葉、別にオリジナルではなくてアサダワタルさんの「コミュニティ難民のススメ」からいただいたのですが、参加の方は割と気に入ってくれているようで、どのジャンルともつかぬ自分の探究や関心をあらわすのに、使い勝手がいいようです。

 

コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ―

コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ―

 

 

どちらかというとネガティブなアイデンティティのようにも聞こえますが、逆に開き直って(?)自由になれる肩書きのようです。

 

ところで国分功一郎さんは熊谷晋一郎さんとの話しのなかで、人と話すことは治癒の効果がある、しかし精神分析はお金も時間もかかるし、受けられる人は限られている、当事者研究はその民主化だね、と述べています。

 

僕は、当事者研究が現れて、心のことを専門家が独占することがようやく変わっていくのかと思いました。専門家が必要でないとは言っているのではありません。でも、非専門家ができることは非常に多くあるのです。当事者研究においては、今まであった専門家によるアプローチではできなかったことが可能にもなっています。

 

また、坂上香監督の作品「ライファーズ」では、終身刑になった人たちが自分たちの自助グループをつくり、回復していく姿を描いています。僕は非常に驚きました。プログラムは用意されたものであれ、非専門家同士で、人に大きな変化がおこっていると思いました。

 


ライファーズ映画予告編

 

え、こんなことがあるんだったらもっと心の専門家たちは、人を自分たちの専門下にだけ囲い込もうとするのではなくて、こういうやり方もあるよとか、横の自助的なものを紹介したり、こういうことをもっと発展させたり、社会のなかで仕組みとしてつくるような働きかけや研究をしたらいいんじゃないの、と思いました。

 

でもそうはならないみたいです。僕は一人一人が自分で回復していくあり方を知りたかったし、どう生きてけばいいのか、どう生きていけるのかを知りたかったのですが、そういうことはどうも「心理学」とはズレているみたいで、そんなことをやっている人が見当たりませんでした。もっと探せばいたのかもしれませんが、主流の人はそういう方向に行っていませんでした。

 

心理学を学ぶところにいて知れることはあるけれど、肝心なことはもっと外にいって自分で考えて、自分で確かめていかないとどこにもいけなそうだと思い、僕は人類学科に行ったり、ダンサーや演劇をやる人たちの話しを聞きにいったり、自給を学んだり、関係しそうな領域を横断的に探っていきました。

 

自分の知りたいことを確かめるためには、学問でまだそんなことが明らかにされていなくても、自分で「これはこうなっているのではないか?」と作業仮説をつくり、自分を実験台にして実証していく必要があります。

 

その手順や様式はいわゆる「科学的な方法」ではないし、「誰の理論だ」「どんな根拠だ」と言われても「自分の考えです」という他に仕方ないのですが、僕は普遍的真実を実証するために探究しているのではなく、状況を実際に開くということを軸にしていて、そのための妥当な考え、有効な考えと思われるものを常に更新しているだけです。

 

僕は、自分の関われる範囲で、落ち穂拾いをやってきて、その落ち穂を組み合わせることによって、自分にとって必要な状況を把握し、打開する考えを更新しています。それは普遍的真実のようなものではないけれども、べてるの家当事者研究で研究されたことがスキルとして「スキルバンク」に登録されるように、有効なものであると思っています。

 

僕は生きることとはどういうことなのか、社会というものはどういうものなのか、人間というものはどういうものなのかを自分が生きるために問うてきて、確かめ、その考えはあるまとまりをもってきました。それは「哲学」なのでしょうか。いや単に問うてきただけで、哲学書など一つも読んでいません。しかし、精神分析民主化当事者研究であるのなら、哲学カフェは哲学の民主化でありそうですし、その意味でなら哲学をしてきたともいえるのでしょう。

 

フェミニズムを一つも学んでいませんが、生物学的な意味ではなく、抑圧者、価値を奪うものという意味での男と、同じく生物学的な意味ではなく、被抑圧者、価値を奪われるものとしての女であるなら、同一人物のなかに男も女もいるし、状況や立場が変われば、男にも女にもなります。男と女を生む構造自体を分析し明らかにし、自分が解放されながら、環境を変えていくものがフェミニズムなのだとしたら、僕はそれを探究してきました。

 

僕の考えは様々なもののパッチワークであり、あるものを組み合わせて用を足すブリコラージュ(器用仕事)です。それは、全く見当違いの可能性もありますが、更新を続けるにつれ、むしろ話しが通じる範囲は広くなっています。以前は関係ないように思われた分野の人たちと話しが通じるようになっていくことが僕にとっての一つの指標です。

 

ある分野に認められないからといって、探究をやめる必要はないと思います。探究を続け、認識をより妥当なものに更新していくなら、権威には認められなくても、当事者間や実際性を重んじて探究している人には話しが通じるようになると思います。そして共に探究できるようになると思います。

 

僕はそれを文化人類学レヴィ・ストロースの野生の思考(ブリコラージュとしての思考)にならって、野生の探究だと思っています。

 

僕は探究は全ての人が意識していなくても大なり小なりしているし、探究することが自分が生きることの豊かさをもたらすと思っています。ジャンル難民ミーティングは、野生の探究の活性化であり、探究の民主化の活動として位置づけています。

 

 

野生の思考

野生の思考

 

 

  

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

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第2回ジャンル難民ミーティングを終えて アイデンティティ

ジャンル難民ミーティング、ジェンダーを含めて、今回アイデンティティについて関心がある人が割と多かったような気がします。

 

さて、当事者にとっては、アイデンティティと呼ばれるものの学問的な位置づけを知りたいというよりは、自分からみても納得し、肯定性が見いだせる自分の位置づけを見つけたいということなのではないかなと思えます。

 

建前や前置きの仕方はどうであれ、世間では例えば正社員で結婚している人が「普通」であるとされ、そうでない人、そういう性向を持たない人はあからさまでなくても、ちょっと違う人、ちゃんとしていない人、ぶらぶらしている人のように二流市民扱いされます。

 

「普通」というのは大多数が自然にそうなのではなく、あるべき姿としてあります。「普通」にあわせなければ世間的、慣習的感覚ではちゃんとした人として認められないという風土があります。

 

そこで「普通」とされる何かができなくても、後ろめたさや罪責感の否定性の沼にひきづりこまれず、むしろ出ていく自己認識へはどのように移行できるのだろうかということが問いになるのではないかと思います。

 

よく自分が変わるというふうに言いますが、自分の体は別に変わっていないので、自分の認識や感じ方、体験の仕方が変わっているのだと思います。

 

フリーターなりニートなり、といったような世間からは否定的に見られるアイデンティティを持たされてしまうと、まずそれによって停滞状態になって、その人の「時間」が動いていきにくくなりますが、その「時間」を動かしていくにはどうしたらいいのでしょうか。

 

一つは、そのような否定的な価値観が押し付けられたりしない空間に移動したり、あるいは調整して作ったりするということが有効なのかと思います。強迫が打ち消された空間では、自分のなかで、動きだすものが生まれやすくなります。その動きだそうとしているものが展開を生みます。

 

本当に頼れるもの、信頼できるものは、既に知っているものではなく、今自分に潜在しているその自律的な動きであって、そこに応答することによって、自分への信頼、他者への信頼が回復されていくように思います。

 

強い関心や興味、生きていくなかでどうしても気になってしまうこと、それらが生まれる背景には、自分のなかに根源的な痛みや傷の存在があるようです。鶴見俊輔ならそれを親問題というでしょうし、国分功一郎さんもアイデンティティは生まれてきたときから負っている無数の傷、過去(Human Fate)と人間の本性(Human Nature)の相互作用としてあるといいますが、根源的な痛みや傷がその人の生きづらさの原因でもあり、同時にそこから回復していくための強い動機や力を提供してくれるものであるようです。

 

個々人はたとえ意識化していなくても、自らの根源的な痛みや傷から派生した、生きることに対する根源的な問いを持っていると思います。そして生きているなかでその問いを確かめていくことを動機づけられているように思います。その強い動機は自分が生きることを展開させていく推進力になると思います。強迫が打ち消されたときに出てくるのは、そのような根源的な問いに繋がっているような動きなのではないかと思っています。

 

さて、このように書くと、生きるなかで何かを達成しなければいけないかのように思われるかもしれませんが、別に達成することはないと思っています。意味とはその後に繋がる有用性なのですが、太陽も寿命があるわけですから、やがて全ては消えていくので、達成に意味はないのです。どのように生きたとしても間違いではないというのはそういうことだと思います。

 

ただ、言葉を持ってしまった人間は、意味を求める世界に投げ込まれていて、世界はそう認識されるので、自分の意味を回復させる行為に充実を感じるのだと思います。なので、生きている間は、自分の根源的な痛みや傷に対して生まれる回復への動機へ応答することが、豊かなサバイバルの選択としてあるということだと思います。

耐えきれない痛みという救い

手近なものを集めて、自分の安定を作って固まってしまう人間の自動的な自己疎外について話していました。

 

裸のミノムシの周りに綺麗な毛糸の細切れをおいておけば、ミノムシはその毛糸を使ってミノを作り、カラフルになります。ミノムシにとって、重要なのはとりあえず身を隠すミノをつくることであり、ちょっと変な人工のものであっても周りにそれしかなければそれでミノを作ります。

 

手近なものとは、たとえば「普通」と認識される範囲におさまるように振る舞うことや、「人の迷惑をかけない」という道徳であったり、何かが「できる」という自分の能力であったりするのだと思います。

 

それらによって、人間は自分でも気づかず、自動的にミノを作ってしまうと思います。自分の底にある根源的な痛みを感じなくするためです。底からの痛みは、耐えることが難しいものです。なので、まずミノが作られていきます。

 

ミノは自分の痛みを感じさせなくするもの、忘れさせるものなのですが、それは同時に他人の痛みに無自覚になることを伴います。よって無自覚に、悪気なく人を傷つけてしまうような、自覚のない鈍い状態、暴走状態が現れます。マイノリティにとって、マジョリティがなぜこのように厚顔で人を踏みにじることに鈍感なのかと感じられる理由はここにあると思います。

 

「普通」や「できる」ことに隠れられて、痛みを感じていない状態とは、ミノで自分を覆い尽くしてしまった疎外状態なのであって、逆に弱い人、傷つけられた人、「適応」できない人のほうは、他人と自分の痛みを感じられる人間として回復していく可能性に開かれた人だということです。

 

生きているなかで、他者によってそのミノが傷つけられる時、忘れていた痛みと混乱は再燃します。何かができたり、今まで達成できていた「あるべき姿」を維持することが成り立たなくなると、人は何かになれたり、何かをできたりするから自分には価値があるという条件つきの自分の維持から、その条件を手放しても自分を受け入れられる体制へと移行しなければならない切実さにさらされます。

 

それは生をかけた試練です。傷つけられることによって耐えられない痛みを取り戻し、可能性に開かれた人も、残念ながらその可能性を実現する保証は何ももらえません。今までのやり方が通じない暗中模索のなかで必要なものを見出すことによって、ようやく回復し生き延びることが可能になります。

 

耐えきれない痛みは自分を死の方向に近づけるものですが、同時にその耐えきれない痛みによってしか、人は自分の能力をこえる困難に向き合う力を持てず、自分と他人の奥底の痛みを感じる人間として回復していくことができないように思えます。

「迷惑」が必要なのはなぜか 

人間は自分で自分を疎外していきます。そしてその疎外を自分だけで止めることはできないと思います。僕は昨年奥田知志さんを知って、人間観がようやくそこに落ち着きました。

 

人間は素晴らしい、とかとにかく全肯定の人間観は実は否定的なのです。なぜならそうなれないからです。弱く、苦しんでいる人ほど、そんな素晴らしい人間観に耐えきれず苦しみます。

 

弱く、どうしようもなく、一人では駄目である、という人間観のほうが、妥当だと思います。そうなるとみんなが駄目になるのではなく、逆で、自分に着地できると停滞から抜けていくことができます。

 

奥田さんは、人と人が健全に傷つけあうことが社会にとって必要であるといいます。また地域から「迷惑」をひくと何が残るのか、ともいいます。

 

人間が自分で自分を疎外していくということは、具体的にはどういうことかというと、一人一人は、とりあえずの自分にとっての安定っぽいものが得られれば、それでよしとなって、自動的に自分のその状況を変えないように動機づけられてしまうからです。それは強い力であって、自分も気づかないところからそうなってしまうと思います。

 

そして次に、ごく自然にそのとりあえずの安定っぽいものを揺り動かすものを抑圧しようとします。ところが「迷惑」をかけないと、その場で既に強いものが強いままになること、誰かがより負担を多く担っているのにそれを認めない環境のいびつさを許します

 

そして、その仕組みに従う人は、そもそもはその仕組みと仕組みを作っている上の人が悪いのに、そこには怒りをむけず、その仕組みを「破る」、自分と水平的な立場の人に怒りをむけます。あの人が「迷惑」をかけていると。

 

しかし、奥田さんも指摘するように、実のところ「迷惑」をかけない人同士の社会とは、健全な社会ではないのです。なぜなら、それぞれの個人は安定を得たらそれでよしとなってそれを守る自動的な傾向があるので、「迷惑」という他者がやってこない限り、社会は変わらないからです。

 

男女平等ランキング114位の日本とは、昔から変わっていないということだと思います。社会の「時間」が止まったままです。強い人が誰かを踏みつけにして、そのまま幅を利かせると「時間」は止まります。「時間」とは人間が文化的存在としての人間になっていく変容のプロセスです。

 

弱いもの、どうしようもないもの、一人ではダメなお互いの「迷惑」に応答していくことで、環境は変わっていきます。それは自動的にその環境の権力体制、止まった「時間」への反逆になるので、当然周りから圧力を加えられるのですが。

 

しかし「迷惑」をかける人に対してお互い人間でありながら応答するということしか、環境や社会が変わっていく方法はないのだと思います。底にいびつな体制があったとしても、そこで得られる一時的な安定に安住し、それをよしと思ってしまう人間の自動的な自己疎外、そのどうしようもなさを変えてくれるのは、今の自分のあり方を成り立たせなくする他者なのです。

 

今の自分のあり方が成り立たなくなる他者が強制的にやってこないと、人間も社会も変わらないのだと思います。善意ある人、意識ある人が自分から変えられるのではないと思います。当たり前のように流通し、内面化されている「迷惑」をかけないという道徳は、根本から吟味され、あらためられる必要があると思います。

 

「迷惑」をかける人への怒りがあるのなら、その人は自分の「時間」も止めています。自分も知らずに自分の「時間」を止めてしまうその内面化された抑圧から解放されていくためにも現在の自分のあり方を成り立たせなくする「迷惑」という他者とそこへの応答は必要であり、それ抜きには人間らしい環境など作られていかないと思います。