人権
入管の問題、技能実習生の問題。
自分自身も大学出るまで「人権」という言葉は学校でよくあるような、建前だけで中身のないスローガン、公の機関が正面から向きあうつもりはないけれど、責任を果たしているような「やってる感」をアピールするキャンペーンをやる時に使われる言葉かと思っていました。
人が人として回復する場とはどんな場だろうかと自分なりに確かめてきて、やがて人は「生産性」とか「有用性」とか評価づけられる価値基準をもって扱われているときに回復していくことはできないし、変わっていくことはできないのだと思うようになりました。
何かの価値基準で人をモノのように使用価値、消費価値としてとらえたり、扱うことは、その人の人権を侵害しています。そしてそのようにとらえられ、扱われた人の、人としての時間は止められてしまいます。そして時間が止まってしまった人、止められてしまった人にとって、生きることは拷問のような時間の連続になってしまいます。
人に回復をおこすための尊厳を提供すること、侵害された尊厳を回復すること。それが人が人として生きるために必要なことです。人として生きることとは、変容しながら、回復しながら生きることです。人を人して扱う、つまり人を序列づけるどのような価値基準もその人との関わりなかには持ち込まない、あるいはそのようなものが持ち込まれているのなら、はね除けるやりとりのなかでだけ、人はお互いに人であるのだと思います。
お互いに人であることを約束している。その暗黙の約束を信じられているときが、人が人に希望をもっている状態であるといえるのではないかと思います。お互いのその暗黙の約束が人権であると思います。
たとえどんな差別意識をもっていようが、内心どう思っているかとか関係なく、人は人として扱われる必要があります。人としての尊厳が回復したとき、ようやく人としての時間は流れはじめるからです。人でない時間は拷問の時間だからです。
社会や環境が質的に変容していくためには、人が人として扱われることが必要であり、さらにいえば、社会を質的に変容させる潜在的な力をもっているのは、いま強い抑圧を受けている人たちです。その人たちが回復していくとき、自ら損をかぶって、体や命をかけて社会と向き合います。なぜならこのように人であることを奪われている生なら、生きていくことは値しないと感じるまで追い詰められているからです。同時にその切迫した動機は自分個人だけに収束するにとどまらず、周りの社会や環境を回復させていきます。
社会をいい方向に変えてきたものは、そのように身体や命をかけて、人が人であることを求めてきた人たちの力なのだと思います。
あまり直接の抑圧を感じていない人は、その損やリスクをかぶるより回避する動機のほうが強いようです。必死で乗っているレールから外れるほうがこわい。いいことに賛同はしても、自分の体面を保つための援助ぐらいしかなかなかできない。
しかし、尊厳を奪われ、抑圧されている人たちに関わる度合いを深めるとき、自分自身に課していた抑圧が表面化し、そこから解放される機会も生まれてきます。パウロ・フレイレは人間はそのままでいつも人間であるのではなく、人間であることは常に問われていると指摘しています。
人であることは、生まれたから人であるとか、人間としての体をもっているから人であるというような静的なことではなく、今まさに回復のプロセスを派生させ、それを身をもって進行させている動的な状態、回復のさなかにお互いを投げ入れている状態であるのではないかと思います。
入管に足を運んだことのある人なら、普段の外国人を人とも思わぬ横柄な態度と「少しひどくはないですか。。。」という、世間に向けて猫をかぶった表現のギャップに背筋が凍るのではないですかね。https://t.co/UCSedxVENZ
— あらら (@A_laragi) November 21, 2018