これはずっと言っているけど…たとえば世界中で行われているPRIDEパレードは理解を求めるでは無く、存在を見せて人権と平等を訴えているのですよ。理解なんてしてもらわなくても問題ないのです。
— 畑野とまと (@hatakeno_tomato) December 15, 2018
去年、ヒューマンライブラリー関連の取材で『理解は求めてないんです!』って年を推したのに、理解を求める活動をしているってテロップ入れられて…ここ何年もずーっとそういう方向に社会側がもっていこうとするのが凄く嫌なのです! https://t.co/zmmzDxEwmN
— 畑野とまと (@hatakeno_tomato) December 15, 2018
「理解」ではなく、人権と平等を。
「安心安全」とよく言われますが、その言葉に意識的にどんな意味をこめているのか、そして気づかずにどんな意味がこめられているのかは問われる必要があると思います。
稲刈りイベントで、全員に鎌ではなく、ハサミを用意したということがあったと聞いたことがあります。
別にハサミでもいいと思いますが、稲刈りという体験のなかで何を伝えたいのかがなく、とにかく「安心安全」のためというならば、その「安心安全」は、人が自分の経験から学ぶ機会をあらかじめ奪っていて、自分が戸惑いそうなことをあらかじめ排除する思考からきていると思います。その思考は当然、人(マイノリティ)にも向けられるでしょう。
ドラマ教育を実践されている西田豊子さんは、人に自分の表現が生まれる環境には「安心・安全・信頼・尊厳」が必要であると言われていました。
信頼なき「安心安全」は単なる自分本位の保守主義でしょう。信頼とは突き詰めれば、相手に賭け、ゆだねることでしょう。それがなければ、人は今の自分を踏み出し、乗り越えることが難しくなってしまうのではないでしょうか。完全な「安心安全」を追求するとき、人は自分に必要な経験を与えるために踏み出し、変わっていくことを奪われた牢獄にいるのではないでしょうか。
そして尊厳。尊厳は、自分が相手を理解してしまうことなどできないこと、自分の知っていることが偏っていて、また非常に僅かであることを踏まえ、正しいことはこうだ、当たり前はこうだ、普通とはこうだなどと、多様性を無視して土足で人に踏み込むのを「止める」ことであると思います。
人を「理解」することに対して、失礼なこと、尊厳に踏み込むことを「止める」ことは、はるかに実現可能なことであると思います。
誰かのことを理解していくには多くのことが必要でしょう。しかし、理解しきることなどないのであり、理解しているなどと思うのは、どんなに親しい人であっても、その態度だけで相手に対するあなどりなのです。それは失礼なことであり、人に対する尊厳などそこにはありません。
誰が誰を「理解」するのでしょうか。その「理解」という一方的な目線は、既に今後踏み込みをするというサインそのものです。