降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

見えてくる世界を変える

言葉が変わればものの見え方、感じ方は変わってきます。

 

自分のなかにある自律的なプロセスを「時間」という言葉に置き換えはじめたここ最近、世界の把握のされ方が変わってきています。

 

空間的思考、「時間」的思考、空間的な移動、「時間」的な展開、というような言葉を使ったりしましたが、「時間」は思考ではないなと思ったりして、整理しています。

 

ある位置からある位置へ意思で移動しようとする空間的な思考の堂々めぐり、空間的思考での把握による停滞があります。空間的思考は実体でないものを実体と勘違いする思考、詐欺的な思考である一方、プロセスとしての「時間」は実体であり、疲弊を最小限に抑え、むしろ活力をもたらしさえします。

 

空間的思考の弊害は多大であるので、それを緩和するために、自分におこるプロセスを「時間」ととらえるあり方を整理しています。

 

よくあるのは、空間的思考の「面倒くさい」と実際との乖離です。

 

たとえば、一人暮らしで自炊しようとしたとき、昨日の残りものがあるとします。それを温めるだけでも一食として足りるということがあって、そこで空間的思考が「手間をかけるのは面倒くさい」と介入してきます。「面倒くさい」が自分の本当の思いであり、気持ちだと錯覚します。

 

しかし、自分の経験上は、洗い物などが増えたとしても、ちょっとでも一品作ったり、新しい具材を加えたりすることで、一食の体験が自分に対するもてなしになり、新鮮な喜びと次に向かっていくリズムがくる一方、「面倒くさい」というのは自分に対するおざなりな対応で、そのおざなりな扱いに対して、テンションが下がり、より気持ちのリズムが停滞してしまいます。

 

つまり、あれやってこれやってという空間的な思考が浮かび、何かが達成されていない状態から達成した状態へ意思によって移動させることを面倒くさいと感じる思考があって、それは確かに言葉に置き換えるなら「事実」であるのだけれど、その思考を「本当だ」と真に受けて従っていると、自分を元気にする機会も自分を疲弊させる機会になってしまいます。

 

「時間」という捉え方は、空間的思考の上で生まれた虚としてのリアリティではなく、実際の身体の感覚や求めを実のものとしてとらえ、それに応答し、空間的思考に支配されて動きが取りづらくなっている状態から、実体としてある流れを取り戻し、自分を取り戻していく捉え方だと思っています。

 

また先の料理の例に戻りますが、自分に対する「もてなし」は、空間的思考が「面倒くさい」と捉えたとしても、実際には、活力を増やしていき、世界に対する信頼感を増していくために身体が動こうとしているのであって、それは間違いない自分の求めです。

 

雑な空間的思考で無理なやり方に飛びつかず、自分のなかにある感覚、動こうとしている感覚が自然に流れだし、動きだすにはどうしたらいいだろうという、プロセス中心思考で取り組み方を見出していけば、そこに取り組むこと自体が喜びや活力をもたらすと思います。

 

よくある「本当の自分」というような言葉では、空間的思考と実際のプロセスとしての求めが区別しにくいのではないかと思うのです。そこで言われる「本当の自分」というのは、自律的に動き、展開していくための整えを待っている「時間」と位置づけられるでしょう。

 

それは、自意識としての自分ではなく、動こうとしている第三者である「時間」がいわば「本当の自分」であり、「実体の自分」であるということでもあります。「時間」を中心にして世界を捉えていくと、紛らわしい言葉を「時間」という実体にフィットさせた実際的な言葉に変換していくことができます。

 

そのように言葉を換えていくと、世界は今までとは別の様相をもって感じられてくると思います。