降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

2018年関西クィア映画祭 西部講堂 『沈黙ー立ち上がる慰安婦』

西部講堂で行われている関西クィア映画祭へ。

 

kansai-qff.org

 

Wikipediaによるとクィアとは、英語圏の言葉「Queer」のカタカナ表記であり、元々は「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉であったが、現在では、セクシュアル・マイノリティ(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルトランスセクシュアルトランスジェンダーなど)の人々全てを包括する言葉として一部では用いられているとのこと。

 

クィア映画祭で上映される作品はとてもいいものが多く、毎年行っているがブログに書いたのは4年前のものしかなかった。アセクシャルの映画。アセクシャルの人は親密になっても性的欲求を持たない人ということだった。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

当時、アセクシャルの存在を知ってほっとするところがあった。生殖しなくてもいい。そうはっきり認識した。セックスを介するパートナーの獲得が究極の幸せのかたちみたいなムードの世間はみていてなかなか疲れる。歌とかもラブソングばっかりでなく、もっと色んなこと歌えばいいのにと思っている。

 

3年ほど前のトランスジェンダーの人のドキュメンタリーで「もし私が手術をしなかったら私は今頃生きていられなかっただろう」という言葉を聞いた時、別に手術で体を変えようがいいじゃないかと思うようになった。

 

性というところではないが、僕は多分、だいぶ人と違った感覚で生きている。愛着のなさがあって、別れが人のように辛くないし、恋愛感情のようなものも強烈にはならない。人とご飯を食べるのが楽しい、一緒にいたいということもあまり優先にない。興味深いテーマを共有して話せるのなら話したいが、特にそういうのもないのに関わるだけ仲良いだけという関係にあまり興味を持てない。

 

人と違うこと、同じことを楽しめないというのは寂しいことだが、寂しいからといって無理に一緒にやったところで楽しめないので仕方がない。クィア映画祭はそういう自分にとっては、性ではないが共感できることが多いのかもしれない。

クィア映画祭は、必ずしも性だけを扱っているわけではなく、沖縄の問題や慰安婦の問題を取り扱った映画も上映している。今回僕が一番印象に残ったのは、日本に騙されて連行され慰安婦になった人たちのドキュメンタリー「沈黙ー立ち上がる慰安婦」だった。

 

www.uplink.co.jp

 

1日に15人から20人の兵士の相手をさせられる。そして梅毒をうつされて、今でもその後遺症に苛まれていると語った女性は発言後に立ち上がって場を去ろうとしたが、歩き崩れてしまった。強烈なシーンだった。

 

慰安婦の方たちが日本の学校を訪れて語りの場を持ったあと、帰りに学生の一人に「あなたは何歳ですか?」と尋ねるシーンがある。「18歳です」とこたえた学生に「私は17歳です」と。学生は「あっ・・」と言ってもう何も言えなかった。何十年たったとしても、時間は17歳で止まっているのだ。

 

当事者の女性たちは、日本政府に屈辱的な対応をされただけでなく、韓国政府や韓国の支援団体からも抑圧されていた。日本に訪れた慰安婦15名のうち、大半がもう亡くなっている。

 

報われたとはいえない一生だっただろう。だが死ぬ前に止まっていた時間を動かすために彼女らは立ち上がり、人が本来あるべき姿を提示し、日本政府に向き合った。

 

自分として生きるということを、僕はたき火のようにイメージしている。中央にちいさな火があり、そのちいさな火を消さないようにしながら、そこへ燃えきってない塊をくべていく。自分という空間、スペースを圧迫していたもの灰にしていく。燃えきらず残ったものがだんだんに燃えて消えていくこと。それが時間が動いていくということだと思う。

 

何かを獲得していくのではない。むしろ自分というスペースのなかに、すでにあって空間を狭めているものの時間を動かし、灰にしていく。充たされることは、精神に解放されたスペースをひろげていくことなのだと思う。

 

 

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