降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

精神看護1月号

国分功一郎さんと斎藤環さんのシンポジウムの様子が掲載された精神看護1月号を手に入れました。友人の山口純さんが、以前SNSの投稿でモノを修理すること、現代の責任とはなんであるかと書いてあったのを思い出しました。

中動態の考え方において、主体ははじめからあるのではなく、かかわりの中で形成されていくものとされているようです。

 

10年ほど前に、高速道路建設が決まった西山での西山ピクニックという場の弔いのようなピクニックに参加しました。廃村になった大見という村をもう一度再生しようという大見新村プロジェクトで行われた大見新村ニュー祭りでは、人間が鹿になる演劇がありました。

 

それらは、かかわりの中で、新しい主体を形成していく営みとしてあるのかもしれませんね。

 

モノとの関わりにおいては、新しい主体は、関わることによって形成されてくるので、いきなり完成品を渡されてしまい、過程を奪われると、人は新しい主体へ変わっていけないということにもなるかもしれません。それは疎外のあり方の一つでしょう。

 

壊れたモノがまた直されるというのは、主体の形成ということに加えて、モノにとっての奪われた文脈がまた取り戻される、生きた世界のなかに戻る、ということでもあるのかなと思いました。それは回復ということの本質的なかたちかもしれません。

 

奪われた文脈を回復させ、わたしたちの世界に再び招き入れられること。木村敏は、治療とは「わたしたち生活者の仲間になること」というふうに言っています。モノに対して修理するという関わりを通して、関わる人はモノがまた生きた世界のなかに戻るという認識を通して、自分のなかにある世界に共有されない部分が世界の一部として現れるという、予言的な体験、未来の体験をしているのかもと思えました。

 

プラトンの中に「アルキビアデス」という対話編があります。その中でソクラテスが「使う者と使われる物は別だ」という話をしています。

例えば「靴職人はナイフを使う。ナイフを使って革を切るわけです。よくわかる話しなのですが、じつに興味深いのは、ここで話しをやめておけばいいのに、プラトン =ソクラテスが議論をさらに次のように深めてしまうところです。

 ソクラテスはこう言うのです。「しかしアルキビアデスよ。靴職人は靴を作る時に、ナイフだけではなくて、靴職人自身の手も使うのではないかね」。

 途端に議論がおもしろくなる(笑)。靴職人とナイフだったら、使用関係において使う者と使われる物が別であるのは明白です。しかし、靴職人が自分の手を使うとなると、「使う者は何で、使われる物は何?」となってしまうわけです。

ギリシア語では「使う」はクレースタイという動詞によって表現されますが、この 方言は中動態に活用します。僕らの常識からいくと、誰かが何かを使うのだから、能動態に活用するような気がするわけですが、どうやら「使用」にはそれとは異なる意味があるようなのです。

さらに興味深いのは、この動詞が目的語を対格でとらないということです。対格というのは直接目的語を示します(たとえば「use it という文におけるitは直接目的語です。ギリシア語などの言語で ご対格に変化させて、その格によってその語が直接目的語であることを示すのです)。

この動詞の目的語は、間接目的語を示す与格や「の」を意味する属格に置かれるのです。 自動詞クレースタイは、使用の関係が、主体(主語)があらかじめあって客体(直接目的語)をコントロールするのとは異なった関係であることを示唆している――アガンベンが『身体の使用』 (みすず書房)という本の中で、そのような実に刺激的な話をしています。

言い換えると、主体(主語)はあらかじめ存在しているのではなくて、使用関係の中で、何かを使うために、それを使う主体として構成されるということです。たとえば車椅子を使う時、あらかじ め存在している自分が、そのままで車椅子をコントロールしようとしてもできないと思うんです。車椅子を使うためには、車椅子を使う主体に自分が変化しないといけない。その意味で、使用は支配 と対立します。支配は主体(主語)が客体(直接目的語)をコントロールすることです。使用において は、主体と客体が相互作用の中にあり、主体は変容するし、客体を思いのままにはできない。

先ほどの靴職人をめぐるソクラテスの議論ですが、そこではまさしくクレースタイという動詞が 話題になっています。プラトンがここで、使用関係をめぐる主体と客体の関係に気付き、使用とは、 使う者が使われる物を支配することではないという上記の議論に気付くことも不可能ではなかった ろうと思います。

しかしプラトンは、なんとしてでも使用関係を、使う者と使われる物の区別の上に基礎づけよう とします。そして最終的にはこう言うのです。 人間は魂である。魂が使う者であり、身体が使われる物なのだ、と。 これこそ、クレースタイという中動態が抑圧され、魂と身体の二元論が打ち立てられた瞬間であ ろうと思います。プラトニズムとしての哲学の成立の瞬間です。