降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

意味と無意味

SNSで下記のブログが紹介されていた。

siusiu.hatenablog.jp

 

筆者は「天国のゲーム」の条件として「忙しさを感じること」と「受動的であること」を挙げている。

 

「天国のゲーム」には条件があります。
それはプレイ中に「忙しさを感じること」。忙しいときは時間が早く経過するでしょう?
ここ天国では退屈を感じないように忙しいゲームが推奨されています。それに「忙しさを感じるゲームは良いゲームの証である」と誰かが言っていたのを聞いたことはないですか?
 
求められる条件の2つ目は、「受動的であること」です。
もうウンザリでしょう? 何かをやりなさい 何を? それは自分で考えてください、みたいな話は。
何をやるかは指示される方が楽ですし、さらには主体性を必要としないとなお良いものです。人間は案外考えたいようで考えたくない生物なのですよ。

 

 

以前このブログで書いた「時間論」では、括弧つきではない日常的な意味の時間と括弧つきの「時間」の二つを分けた。そこで括弧付きの「時間」はそれ自体には実体が伴わない空虚な間隔としての時間ではなく、実際の変化を伴ったプロセスそのものを表すものとした。

そこでは、そもそも時計ができる前は時間とは海の満ち引きや太陽の移動、生物の変化などいわば実体をもつものの変化のプロセスそのものであったはずだと考えた。プロセスであったものがやがて1秒1分という、それ自体には何のプロセスも伴わない、意味のない間隔の積み重なりとしての時間となったことは、本来的なものが偽のものに取って代わられたということだと考えた。

 

実体をもち変化のプロセスそのものであったもののほうが本来であれば時間とよばれるはずであるが、その使われ方をするときの方が例外的で特別な場合に限られてしまっている。特別な場合とはたとえば「私の時間が止まってしまった」「私の時間が動きはじめた」とよばれるような場合だ。時間という言葉の例外的な使い方だ。(ネットの無料の広辞苑ではこちらの意味はそもそも存在しなかった。)

 

1秒1秒という空虚な間隔としての時間と変化のプロセスそのものである括弧つきの「時間」を分け、このように煩雑にすることに何の意味があるのかと思うかもしれないが、こう分けることではっきりしてくること、見えてくることがある。特に人間の回復や変化に関心がある人にとっては、括弧つきの「時間」を考えに取り入れることで具体的にすすめられる次の手が見えてきやすくなると思う。

 

時間と「時間」はさまざまに相反する性質をもつ。上で述べたように広辞苑に載っているのは前者であり、後者の「時間」は前者をもとにした比喩でしかない。しかし、僕はもともと変化のプロセスそのものであった後者の「時間」こそが時間の本来の意味であると考える。これが時間と「時間」が相反するという一つ。

 

(前置きが長くなりようやく紹介した記事との関連になるが)相反することのもう一つは、日常的な意味での時間がより意識されているときはプロセスである「時間」は動かないということ。逆にプロセスである「時間」が動いているときは、日常的な時間感覚が失われてしまう。どちらかが優先になったときは、もう一方がなくなってしまう関係が時間と「時間」の関係だ。

 

忙しさはよく心が亡くなるというふうにもいわれるが、「時間」が動いているときは心はむしろ動いていて、苦しさや焦りなどは後ろにひいている状態なので、僕は忙しさという言葉はプロセスとしての「時間」について書くときには使わないけれど、引用で言わんとしているところはわかるように思う。

 

僕の言葉でいえば、自意識としての私とは止まった時間そのものであり、私という意識が前面に出ているときは、プロセスとしての「時間」は後ろにひいている。その時、自意識は常に自分は何であるかとか、どういう序列やステータスにあるのであるかとか、どうしなければいけないかなどが問われている状態にある。自意識はぎりぎりとした緊張状態にある。

 

ところが身体性を伴わせて集注状態になるとき、自分が何であるかというような認識が追いつかなくなる。止まった時間としての私とはいわばアイドリング状態が確保されている時にある私であって、アイドリング状態がなくなってしまうと存在できなくなる。すると普段の止まった時間としての私である自意識の支配がなくなり、そこで動こうとしているプロセスが解放され、動きだす。

 

「年甲斐もなく」とか「我を忘れて」熱中してしまったなどと前置きするとき、自分が何であるかといったような意識が後ろにひいていることが表現されている。熱中して集注しているときの自分と「我にかえった」自分、どちらが本当の自分かと問われるなら、多くの人が後者だとこたえるだろうと思う。自分とはコントロールする主体、認識する主体であると考えるのは近代的な人間観にならったものであるけれど、今も多くの人が何の疑問もなくそれを受け入れている。

 

ところが長期にわたって自分の「時間」が止まってしまうような出来事に見舞われてしまうと、その前提ではうまくいかない。止まった時間である私がコントロールして私の「時間」を動かそうとするというのは、これまでも述べたように、そもそも矛盾であるからだ。止まった時間である私が後ろにひいた時に変化のプロセスである「時間」が動きはじめるのだから。それは実感としては主体的に感じられるが、実際には自意識は後ろにひいていてそこにあるプロセスと一体化しているので、能動と受動という二元論で分けるなら受動ともいえる。(「主体」が何らかの意思的行為をきっかけとしてある状態に入ることを単純に能動か受動かと分けることには無理があり中動態的な認識が必要だろう。)

 

世間一般の認識とは逆に考えるとき、私の「時間」は動きはじめる。「我を忘れて」いるとき、変化のプロセスと一体化しているときの自分こそが本来の自分で「我にかえった」ときの自分はいわば自分でない自分なのだ。コントロールする主体としての自分、認識し序列づけするような自分は自分として「確認」できる。ところがプロセスとしての自分はそこにおこっているプロセスしかないので自分が何であるか「確認」できない。それはコントロールする主体としての自分からは不安に感じられる。止まった時間としての私は確かなものを掴みたいのだ。しかし確かなものとはコントロールできる止まったものであり、死んだものだ。

 

エーリッヒ・フロムにいわせるならばそれは死んだものへの愛、ネクロフィリアであるだろう。自意識が自分を何であるかと確認して満足するようなことは、死んだもの、止まったものとしての自分を愛している倒錯的な行為なのだ。そして自意識は自分を満足できる状態に常にもっていこうとして自分におこっているプロセスを無視し、厳しい矯正教育を自分自身に行おうとする。その教育の結果、何かのステイタスを獲得できたとしても、そのステイタスは常に可変性をもつ。不安は続き、不安要素を潰していくことが延々と繰り返される。そしてその終わりのない獲得の結果として誰かが抑圧され、搾取される。

 

言葉の世界に入ってしまった人は、常に意味の強迫を受ける。意味とはつまるところ未来を前提にした有用性であるだろう。言葉が作る認識構造のもとでは、自分はどれほど有用な存在であるかという強迫にさらされる。だから意味の求めとは、あらかじめ低められ、限定されてしまった不本意な状態を脱したいという求めなのだ。それはギリシア神話で火を人にもたらせたために岩にはりつけられ、毎日内臓を猛禽類に食べられることとなったプロメテウスの苦痛や屈辱と重なるように思える。

 

そしてここでまた間違いがあるのだが、これまで述べてきたように止まった時間としての私、認識する主体としての私がこの限定された不本意な状態を脱しようとするとき、より高い意味を求めようとする。競争に勝った、より上位にある意味を獲得しようとする。だがそれが根本的な勘違いなのであって、止まった時間である私がいくら何かを獲得しても止まった時間としての私は救われない。

 

止まった時間としての私が救われるのは、私が何であるかというような位置づけが後ろにひいて感じられなくなったときだ。止まった時間であること自体が実存の苦しみなのであるから。しかし止まった時間としての私が自分の本体だという近代的人間観を前提にしていると、そこで捉え方の転倒がおこってしまう。偽の自分のために、本来のかたちのないプロセスとしての自分を抑圧してしまい、余計に動けなくなってしまったり、自分や周りのものに対して抑圧的、支配的な振る舞いを強めるようになってしまう。

 

ゲームに時間を費やすことは無駄なことで依存的な行為であるというのは、これからも生き続けることを前提にした見方だ。だがプロセスとしての「時間」という観点から見るならば意味の強迫に苛まれるこの言葉の世界から本来の無意味(つまり明日から見た有用性という強迫から解放される)の世界を取り戻しているといえる。

 

僕は人間を自動的な自己疎外を止められない存在としてとらえている。どれだけ人口が増えても、科学技術的なものが発達しても、人間の不安はおさまることがないし、自分の安定(単なる維持だけでなく「発展」も安定への欲求だろう。)をいつまでも確保しようとする。もっともっとコントロールして思うままにできるようになろうとする。それが死んだものへの愛であって、生きている自他のプロセスをどんどん殺していっていることであっても止めることができない。

 

その終わることのない不安とは言葉の世界に入ってしまったことによる明日への不安なのだ。明日の不安を確かになくしたい。しかしどんなに競争に勝ち、あらゆるものを獲得したとしても不安をなくすことはできない。それを助長しているのが、止まった私、認識しコントロールする私を人間の本体だとする近代の人間観だろう。

 

( 明日について追記。プロメテウスは「毎日」ワシについばまれる責め苦を負っている。この「毎日」とは何かと考える。それは閉じた繰り返しのことだ。過去、現在、未来とまるで線が伸びていくように「明日」というものが語られるが、精神にとって「明日」とは同じことの繰り返しがまたおこることであり、その繰り返しの空間に閉じこめられていると考えることができるだろう。言葉の世界に入って、「明日」を獲得したことは、実際には知っていることが繰り返される既知の世界に閉じこめられるということであるだろう。言葉の獲得は、火によって暗闇のなかでものが「見える」ようになるこであるが、その一方で既知に閉じた世界を実際の世界と認識するようになることであり、「見えなくなる」ことでもある。)

 

 

救いは自意識がコントロールできるものを獲得することからはおこらない。自意識が後ろにひいて、自分が何であるかなどと認識していない集注状態に入った時にもうおこっている。そして「我」にかえった時にまた失われている。

 

あるいはこう考えてもいいかもしれない。世界や自分を認識したり分析するときに立ち上がる見え方がある。その見え方を通して考えたり分析したりすることはできる。しかしその見え方は世界と自分を死んだもの、利用対象としてしかとらえることができない。その見え方においては、世界や自分を利用対象、操作対象としてしか見ることができない。その見え方は「現実」に思えるし影響を受けるが、あくまでそれはあるメガネを通した見え方にすぎない。見え方とは別に実際が存在している。

 

  

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