降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「見捨てられた」個々人ができること

テレメンタリー「私がやらない限り〜性暴力を止める〜」の感想を『「観客席」から降りて』ブログに寄稿させてもらいました。


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べてぶくろ性暴力事件は告発後、半年以上がたった今もまともな向き合いがされていません。べてぶくろは「当事者研究」を使って、事件を被害者の心のうちにおさめさせ、そのまま済ませようとしました。そして告発後も時間が経って世間がこの事件をこのまま忘れるのを待つ姿勢でいます。

 

当事者研究に関わり、そこに少しでも明るい気持ちを持った人の少なからずが絶望を感じたのは、事件のうちうちでの「火消し」に当事者研究が使われたことだけでなく、当事者研究界隈や福祉や医療など人を救う立場にある人たちの沈黙のためではなかったでしょうか。斎藤環氏、伊藤絵美氏、信田さよ子氏など限られた人たちをのぞき、べてぶくろに直接の改善や向き合いを求める人はあまり見当たりません。べてぶくろがこのままほおかむりを決めこむ姿勢を見せていてもです。

 

たとえ事件に関わる詳細な事実を知らなくても対応の経緯を見れば、良心的な職業者であれば批判すべき点はあるでしょう。綺麗なことを日頃言っていても、所詮業界人ということなのでしょうか。

 

安易な発言はできないとか、言葉がないなどというように、自らの考えにおいて具体的な意見は述べず、良心的な姿勢を見せながら巧妙に言及を避けることが、被害者を見捨てることであることは知っていないわけはないでしょう。保身と利益保持を重視する業界人としてではなく、自律した職業人として個人の考え発言する気はないのでしょうか。

また人権侵害を行う組織が声をあげる個人の小さな力を抑圧し自らの責任をなかったことにしようとする問題は、べてぶくろや当事者研究界隈に限らず、東京シューレアップリンクDAYS JAPAN、カオスラ、グローなど枚挙にいとまがありません。社会において人間がどのようにあったらいいのかを今まで提示してきた業界がいざ自分たちの問題になるとだんまりを決めこむ姿勢を見て「これが現実だ」と深く絶望する人たちに投げかける声はないのでしょうか。

 

業界の責任は果たされる必要があります。しかし一方で、業界が変わらなくても弱い個人が自分たちで問題を小さくとも考えつづけてくことができると思います。大きな力を持つところ、組織や専門家が何かやってくれないと何もできない飼われたうさぎのような存在にされていた個々人が、業界が取り扱わない問題、向き合わない問題を自分ごととして関心をもつ人とともに考えていくことができるのではないかと思います。

 

社会の問題を自分ごととして受け取った人が、ちいさな学びの場を続けていくことができると思うのです。世渡り上手が社会で高い地位を確保するかもしれませんが、そのようなステイタスはなくとも学び、精神が閉じこめられた日々を変えていくことは弱いものたちであってもできると思うのです。

 

業界人たちは広い間口を用意して、面倒をみてあげるから、希望をあげるからおいでおいでと呼びかけます。しかし、いざ問題がおき、弱い個人が一人だけになった大事な時には自分たちの保身の優先します。そんな時に少しだけでも自力があったらと思うのではないでしょうか。

 

カリスマ的な誰かがいないと学びはできないのでしょうか。誰かが考えた枠組みに沿わないと自分も回復できないし、必要なものを得ていくことはできないのでしょうか。自分たちなりの学びというものを取り戻せるのではないかと思うのです。

 

必要なものを自分たちで考えていく。いきなり高度なものができなくても試行錯誤するうちに、自分たちなりの必要は充たせるものになるかもしれません。何よりその自分で考えて試行錯誤することが、業界や専門家に奪われた思考の主体性を個々人が取り戻していくリハビリとなり、また同じ問題意識を持つ人たちに出会っていくためのものになると思うのです。

 

学びとは回復であり、エンパワメントであると思います。孤立させられ弱くされた個々人が問題意識をもって学び、必要な人たちとであっていくことがちいさな自分たちなりの学びの場を続けていくことが暗い社会にそれぞれのちいさな光を灯すことになるのだと思うのです。

 

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