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ここという閉塞から逸脱していくための考察

「時間」について 整体の稽古と2/13トークイベント「コロナ禍を歩く」から 

整体の稽古とトークイベント「コロナ禍で歩く」から「時間」について考える。

 

peraichi.com

 


野口整体では息というときにさすものは単に肺呼吸のことではなくて、いわば体にいきわたる「時間」の流れのことであるようにも受けとれた。

 

冷たい水をわざとちびちびと飲むことで体にいきわたる感覚。呼吸を最小限にしながら息苦しくならない稽古。先に砲丸投げの室伏さんが新聞紙を片手だけで新聞紙を丸める動画が出ていて、そのことでコロナ禍での運動がしにくい環境でも「運動になる」と言っていたのを思い出した。室伏さんも当時よく野口整体の稽古にこられていたとのことで、その「エクササイズ」も野口整体由来だったとのこと。

 

質そのものとしての「時間」。周りのものに影響を与え、共に動かすものとしての「時間」。そういうプロセスそのものとしての「時間」が本来の時間なのではないかと考えている。

 

普通の意味での時間とプロセスとしての「時間」については1年ほど前によく考えていたのだが、いわゆる一般的な時間とは生きているもののプロセスとは切り離された一定の、それゆえにプロセスの伴わない空虚な間隙だ。一方、プロセスそのものであり、実際に周りに影響を与えていくものが時計が出現する前は時間であったのだと思う。

 

時間の話とまるで関係ないようだが、意識として立ち上がっているものが人間の変化のプロセスを止めることに気づいた。意識的なものをなるべく後ろに退かせた状態があると、人間に変化のプロセスが動きだす。それは自意識が知っているようなものではない自律的な変化のプロセスだ。

 

整体ではまさに意識で強制的に止められている体のプロセスとしての「時間」を動かすために、意識のコントロールを積極的に停止させるものが「型」としていくつも確立されていた。

 

日本語では一緒くただが、気づいている領域という意味であるawarenessとしての意識と強制的に体を動かしたり思考したりするものとしての意識があり、その二つは全く別物として考える必要があるだろう。

 

前者は自分とは何であるかというような自意識がない状態であり、起きていても身体的な集注をしているとき、海を眺めてぼーっとしているときなどはこの状態にある。自意識としての自分は立ち上がっていない。そして「我」にかえったときに、「時間を忘れて」いたと表現される。そこでは長かったり短かったりするような、幅としての時間、空虚な一定の間隔としての時間はない。そして実はこの状態にあるときに本来の自分であるという感覚がある。自分の「時間」は動いている。

 

一方で自意識としての自分が立ち上がっているとき、自分を忘れて集注できないとき、時間は止まっていると感じられる。「やらなければいけないこと」や「こうあらねばならないこと」の強迫にはさらされるが、同時に退屈であり、苦痛であり、いたたまれない。本来の状態ではないからだろう。

 

また引き受けるにはあまりにつらすぎる体験をした人が「時間が止まった」苦痛を持つことは知られている。押し寄せてくるプロセスとしての「時間」が破壊的な水準にまで高まっているからであり、体の生きるための自動的な強制停止であるだろう。こうなると自分が引き受けられる非常にわずかな「時間」を日々ちょっとずつ動かしていくしか回復していく方法がない。

 

しかしこれは今までの自分を成り立たせなくし、新しい自分として大きく更新される過程でもある。逆に「受難」のようなことにあわないと、記憶容量やアプリはいっぱいあって付け加えられてもいくがOS自体はアップデートしてないPCみたいになってしまう。

 

(「幸せ」の不幸とでも言えばいいのか。子孫に美田を残すなとか、可愛い子に旅させよ的な。今の自分を成り立たせなくする、他者としての世界に遭遇しないと人間は自己疎外からも抜けられない。)

 

話がそれたが、何かに集注できておらず、自意識が前面に出ていて、自分が何であるかというようなことが終始確認されるような、「時間」が止まったアイドリング中の状態はなぜおこっているのか。

 

今の自分の理解は、気づいている状態としての意識、awarenessとしての、気づきの領域としての意識ではなく、言葉が作り出す意識がそのような状態をもたらすのだろうということ。

 

自分自身で立ち上げているという自覚なく、言葉が作りだす意識(言葉で思考する意識と言ってもいいだろうが。)は自動的に立ち上がっており、そこでは自分も人も序列づけられ、自分自身の価値の高低を常に気にしなければいけない状態になる。

 

魔法の鏡に毎度毎度自分が世界一美しいかどうかを問い続ける白雪姫の王女は、言葉が作り出した意識(言葉の鏡に映し出されるものを本当だと信じてしまう)にとらわれてしまう、言葉を持った人間一般の悲劇をあらわしているのであって、あの王女だけが特別愚かなのではない。

 

加えて、その意識によって肉体としての体の水準でも時間が止まってしまう。

 

体や精神は本来一体であり自律的なのであって、その自律性のもとにしか動かない(心臓が意識で命令しても動かず勝手に動いているように。)。

 

たとえば体が無数のちいさなブロックで構成されているとイメージする。個々のブロックは、イソップ物語の毎度川に落ちることを覚えたロバのように、一旦学習した動きを何度でも繰り返す傾向をもつ。昔に刷り込まれた動きが今は合わないものになっていても繰り返す。これも海綿を積まれて落ちると重くなるにもかかわらず川に落ちて荷物を軽くしようとするロバと同様だ。すると、体のある部分は1年前の動きを繰り返す傾向をもち、別の部分は10年前の動きを繰り返すということになる。このバラバラの状態はそれが向き合わざるを得ない状態になるまで無意識に沈んでいる。

 

無秩序でバラバラな習慣の塊として体があり、それらが更新される機会は動くプロセスを停止させる意識の自動的な制圧、無自覚な制圧によってより奪われてしまっている。

 

稽古では、この習慣化した動きを更新するためにまず普段通りの動かしかたができなくなる「型」に入って、その後普段の動力源ではない、体全体がつながった状態でおこる自律的な動きをもって動くことを体験する。(教育者大村はまが普段使ってそれで済ませている言葉をあえて使わないで別の言葉で表現しようとすることの重要性を述べていたことを思い出した。)そのようにして何十年も前のままのことを繰り返していたその部分は体全体とのつながりをとりもどし、更新される。

 

なぜ言葉から作りだされた意識は「時間を止める」ものなのか。書きながら思い至ったことは、「時間を止める」ということの実態は過去の再現ではないかということだ。一度覚えたこと、与えられた刺激をきっかけに、その時の状態を再現すること。そればかりが繰り返されていれば結果的に状態は更新されず、「時間は止まって」いる。

 

自分とはどういうものかを考える自意識は、言葉によって作りだされている。言葉は既知のものと深く結びついており、というか、既知の記憶そのものなのだが、古い習慣を想起させる。自分とはどういうものかと考える意識が立ち上がるたびに、連関的に古い記憶が繋げられ、過去の動きがまた再現される。自分というリアリティとその制圧性は相当に強く、再現された過去は更新に向かう自意識にとって未知で微細な動きを圧倒し抑圧してしまう。

 

身体と精神と共にある変化していくプロセス、更新していく自律性を強制停止しているのは他ならぬ自意識としての自分であって、考える主体、コントロールする主体としての近代的個人像そのものが変化や更新を停滞させている要因だといえるだろう。

 

言葉によって作りだされた意識には時系列があり、時間は過去から未来へと流れる。1秒1分1時間というプロセスをともなわない空虚で変わらない間隔こそ基準であり真実であると思える。しかし実際の人間の心や精神のありようとそれらは乖離している。

 

精神に時間などない。何十年前におこったことでもそれが昨日おこったことのように感じられることもあるし、大昔におこったことを納得するために後の生が捧げられる。時系列とはあえてそういう見方をすればそういうふうにもリアリティを感じられるというようなものだろう。だから物心以前の状態や自意識が消える状態のときは時系列も時間の概念も消えている。

 

今の自分が関心をもっていることは、言葉が作りだした意識が認識する時間ではなく、プロセスそのもの、自分の周りや自分に触れたものに影響を伝播させていく質そのものとしての「時間」だ。

 

今日視聴させてもらったトークイベント「コロナ禍で歩く」ではそのような質としての時間、伝播し引き起こすものとしての「時間」の話題が豊富に出ていた。

 

今書いたことをもう一度整理しながらイベントで記憶に残ったことを考えてみる。
意識には二つの意識があると述べた。一つ目はただ気づいていて判断や序列づけなどがまだなく、自分がなんであるかというようなことも後ろにひいているawarenessとして意識。もう一つは言葉によって作りだされる意識。後者の意識は変化のプロセスとしての「時間」を止めるものとしてある。

 

整体の稽古では、個々のブロック(あるいは小さいパーツ)としてつながりが絶たれ、ここのブロックが無秩序に過去の動きをそのまま再現してしまう状態を更新していく。その方法は、まず自意識の制圧状態を「型」によって成り立たせなくして、体全体のつながりを回復させた状態でおこる自律的な動きを呼び出すというものだった。

 

精神や心だけでなく、肉体としての体自体も言葉が作りだす意識によって制圧状態、強制停止状態にあり、過去の状態が更新されにくい状態になっている。そしてそこから自律的なものを導き出すやり方も、まず自意識の制圧状態を打ち消すという手順をとる。これは精神的の変容がおこる場でも同じ手順だといえるだろう。まずその人にとって強迫的なものを打ち消す環境設定があるところで、自律的な変容への動きや求めがおこっていく。

 

1秒1分という数えられる時間の感覚があるとき、思考する自意識、言葉によって作りだされた意識が立ち上がっており、自分は「やるべきこと」や「あるべき姿」への強迫にさらされており、自律的な「時間」、プロセスとしての時間は後ろにひいている。その時間は止まった時間なので、強迫にさらされながら同時に退屈であり、飽き飽きとした苦しみももたらされる。

 

何か集注できること、一瞬であれ時間感覚が忘れられる状態に入っているときは、自分という意識や時間感覚、そして強迫的なものが後ろにひいており、むしろ本来のプロセスとしての自分が動いている。止まった時間としての自分ではなく、プロセスとしての変化する自分が存在している。

 

このとき、いわゆる時間感覚は無く、時系列といったものも存在しない。精神や心にとって時系列など存在しない。

 

肉体としての体が無数のちいさなブロックで構成され、そのブロックがそれぞれバラバラな過去に刷り込まれた状態で存在しているように、精神や心と呼ばれるものも同じようにバラバラに反応するブロックが無秩序に組み合わさっている状態として存在しているとみなすと、精神や心の止まった時間(つまり止まったプロセス)を再び動かし、古いものを消していく際に具体的な対処を考える手がかりになる。

 

言葉が作り出した意識が「時間を止める」働きになるのは、言葉がそもそも記憶であり、ある動きが刷り込まれた時点を再現するためではないかと思われた。過去の状態が繰り返し再現されるとき、更新に向けて動く契機をうかがっているプロセスがそのたびにひっこんでしまう。

 

言葉をもち、それを統合する自分という自意識があることは、本来であれば消えて流れていく古い記憶が繰り返し再現されることでいつまでも保持されやすいのではないか。
しかし言葉が過去の記憶や状態を自動的に再現することは、悪いところばかりではないようだ。十分に消化できていない経験にあえて焦点をあてそのプロセス(時間)をすすめることができる。

 

たとえば、昔テレビ番組であったが、ルー大柴にそっくりだった祖父が亡くなり、懐いていた孫が何年も祖父を思い出して泣くという状態にあった。ルー大柴が派遣されて祖父のように孫とやりとりしたところ、孫にとっては未消化のものを消化する十分な経験になったようだ。(ついでに言えば孫の母(故人の娘・故人とは最後まで距離があった。)と祖母(故人の妻)にとっても「故人」との再会が大きなカタルシスをもたらしたようだった。)

 

未消化なまま残っている経験は精神や身体に負の影響を与えるが、それを消化していく際には未消化なままの経験に「続き」を与えてあげる必要があるようだ。その未消化な経験が残ってしまったその当時のリアリティを焦点化し、ピンポイントで再現するきっかけとなるものを用意する際に言葉は有効だ。(もともと言葉がもたらす意識のせいでこういう「止まった時間」の問題が出てくるのだから毒をもって毒を制するようなものであるけれど。)

 

トークイベント「コロナ禍で歩く」では、精神に沈んでいる未消化な経験がその経験と関係がある地を偶然歩くことになったときに浮かび上がり、自分にとって必要な「続き」が経験されたと思われる話がされていた。

 

心というものが無数の小さな記憶のブロックがごちゃ混ぜに組みあげられたようなものであるとき、自分一人では意識下に沈んでいるその個々のブロックに焦点をあてることは難しい。自分は自分の習慣化にあるためいつも同じブロックにしか光があたらず、その他のブロックは未経験でもそのままになっている。

 

(自分自身でそこにアプローチしようとするよりも、環境や他者による偶然の働きかけによって、未消化な経験として残っているブロックのリアリティが彷彿され、消化のプロセスが動きだすことのほうが実際には多いだろう。)

 

ある物語が自分の時間を動かすということがあるだろう。未消化のまま残っている経験は、それをもう一度彷彿させるリアリティがなければおさめられ消えていくプロセスがはじまらない。物語はある特定の心のブロックの「時間」を動かすリアリティを提供する。その意味で物語とは外部化された「時間」だといえるだろう。

 

時間感覚があるときの意識は自意識としての自分が前面に出ており、自分のなかで動こうとしている変化更新のプロセス、消化のプロセスは後ろにひいている。が、そのような意思的主体としての自分が前面に出ていても、物語を読んでいるうちに自分という意識は後ろにひき、動く機会を待っていたプロセスが動きはじめるときがある。意思的主体としての自分、自意識としての自分は直接的には自分のプロセスを動かせないが、自分が後ろにひいた状態になるきっかけを自分に与えることはできる。自意識が自分に対してできることは間接的なことだ。

 

またサードプレイスや街角、玄関口、待合ベンチ、縁側など、境界的な場所においては自意識の自動的な制圧状態はゆるやかになって自律的なものが動きやすくなる。だからこそ多くの人が境界的な場所を求めるわけだが、これも言葉の影響が自覚する以上に精神や心の状態を支配していることを表している。自意識は言葉でできているのだ。だから内と外の間のような意味と意味の間が必要であり、体も精神や心も自覚以前の段階から意味に制圧されている。それゆえ自分のプロセスがどこに動き出そうとしているのかさえ、境界的な空間に身をおいて動きだすものを確認しなければ知ることも感じることもできないだろう。

 

整体の稽古で、手だと感じるところと手首だと感じるところの境界を探るというものがあった。対象とは逆の手で手刀をつくり、トントンと対象の手を打ちながら感覚の変化を確認する。そしてその境界が確認できたらそこに意識をおいて手を動かしてみる。すると体全体がつながった本来的な動きが経験され、それまでの習慣が上書き更新される。

 

境界に意識をおくことで意識は自動的な制圧力を失う。その制圧力が強くかかっているうちは、自律的なものが出てこない。稽古ではまずその意識による自動的な制圧状態を解除してしばらく再制圧できないようにする。そして本来的で自律的な状態をよびおこし、その状態を体験する。そしてここで体験された感覚が再現できるようになる。

 

このように未消化なままいびつに固まっているものを動かして変えていくときは、まずそれが固まったときにあったリアリティを喚起させ、その場所やそこでおこっている動きを気づきの領域にいれる。プロセスには一応それ自体で自意識を後ろにひかせて体験に引き込む力もあるのだが、意識の自動的な制圧力はかなり強いので、意味と意味の間に意識をおき、その制圧力を無化することが必要になる場合のほうが多いだろう。

 

そもそも言葉がもたらす意味がプロセスとしての「時間」を止めているのだが、言葉はピンポイントであるリアリティに焦点をあてることもできるので、リアリティの呼びおこしには有用だ。トークイベントのなかで、相手の人が何かをしていたその日は、自分の誕生日だったということが語られた。

 

「誕生日」という特別なリアリティを喚起させた状態においては、感じられること、思い浮かぶこと、体験のされかたが変わる。近代的個人のイメージからは自分という単一の人格や感性があるかのように錯覚してしまうが、実際にはどのようなリアリティが喚起されているか、自分がどんな状態にいるのかによって、思考も感性も体験も変わる。言葉はあるリアリティを喚起して、普段の自動的な制圧状態では体験できないことを体験し、動かないプロセスを動かす焦点をつくることができる。

 

ひとまとまりに統一された人格や自分などは実際にはない。ごちゃ混ぜの記憶をその場しのぎで体裁をつけたものを「仮に」自分とか人格だとかということにしているだけなのだ。あるのは秩序なく組み合わされた個々の無数の記憶のブロックだ。ならば自分の苦しい状態を別の状態に移行させようとするならば、この実態にあわせたアプローチが必要だ。

 

自分というものが自覚される止まった時間と自分が後ろにひいた生きて動いている「時間」があり、後者を生かすために自動的な意識の制圧状態が成り立たない状態になるよう設定する。意識的主体である自分が後ろにひいて消えるように自ら画策する。その結果、人は世界に開かれ、他者に開かれ、体験に開かれる。

 

そこには時系列はなく、過去は存在しない。過去は現在に加わってふくらみのある現在そのものとなっている。小さかった時の自分も大きくなった自分も亡くなった人もそこでは同時に存在している。何も失われておらず、いなくなってもいない。失われたと思われたものはもう一度光をあてられるまでただ精神の底にいてずっと待っているだけなのだ。

 

自分という意識が立ち上がっているときには見えないものがあり、動きださないものがある。図と地を同時に見れないように、対象を意識的に把握しようとするとき、地は消えてしまう。地を見ようとすると今度は地を図としてとらえるので、図は地になって地はいつまでも見えない。

 

自意識は地の真実を求めているのだが、自意識であるために図しか見えないジレンマがある。図しか真実でないとされることに精神は違和を覚え、苦痛を感じる。

 

認識における地と図の関係は、アニメ「君の名は」でもあったように、時をあつかう物語で繰り返し表現される。「あのこと」が「事実」であることと、自分という自意識の世界を並存させることは決してできない。どちらかが失われるか、成り立たなくなれなければいけない。眠りかけのアリスでなければ幻想の国にはいけない。

 

未消化だった経験を消化していくとき、故人や小さいころの自分などもはや「実在」しないものとのやりとりもおこる。しかしそれらを「実在」するとしてしまうと自意識の世界は成り立たなくなる。

 

意識には図しか認識できない。しかし、たとえられたものとしては、そのままでは現実として受け取れないものの実在性を感じることはできるのだ。心にとってのリアリティを提供することで「時間」は動きはじめる。