降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

薬指に名前をつけない意味 意思と「時間」の相容れなさ

「時間」が動くことは、自分の感じる世界が新しくなっていくプロセスであるといえるでしょう。ただ、感じかたを新しくするのは、プロセス自体です。

 

状態が変わったことを自意識としての私の手柄にしていると一時的には高揚するでしょうが、やがてプロセスは停滞するでしょう。謙虚な人は、人受けがいいとか、謙虚にすべきだから謙虚にしているのではなく、最も停滞なくスムーズに状態を移行させていくあり方を調整しようとしていて、変化は自意識であるわたしの直接の操作にはよらないというリアリティを持っているからあんな感じなのだろうなと思います。

 

自意識はつまるところ過去であり記憶であるので、それは止まった「時間」であると思います。同時に自意識による思考もまた止まった「時間」であると思います。そしてその止まった「時間」である思考を機械的に現実に反映させようとする意思による行為は基本的に「時間」を止める行為なのだと思われます。

 

意思は直線的に物事を達成しようとしますが、「時間」は迂回的に、ぐるぐるとまわりながら近づいていくように動くものであるようです。何かをやるにしてもいかに自分のなかに既に動こうとしているプロセスである「時間」に乗るかが疲弊を抑え、また思わぬ展開やスピンオフを呼ぶことにつながると思います。

 

意思とプロセスである「時間」の関係は実のところ、非常に相容れにくいものであるようです。先日、通っている整体の稽古において、人差し指に集注する、薬指に集注するという実験がありました。人差し指は意思が直接的に伝わるところであり、より「止まって」います。一方、薬指は他の指には連動しても、薬指だけに意思をいれることは難しいのがわかります。

 

この感覚はたとえば、利き手で字を書いてみて、次に利き手とは逆の手で字を書こうとする時の感覚が近いかと思います。利き手でない方の手でかくことが、逆に自由をもたらすので、絵を描くワークなどではあえて利き手と逆にして描くというやり方もありますね。それが頭で理解できていても、利き手でやるとどうしても余計なコントロールが入ってしまい、つい過去に得た成功体験の反復をしようとしてしまったりするものかと思います。

 

稽古で人差し指に集注しようとすると、体を硬直的にして固めて止まった感じになり、横から押されるとすぐバランスが崩れる状態になります。薬指のほうに集注すると、人差し指との感覚の違いは明らかでした。

 

薬指の状態をコントロールするようなことは違和感があり、また難しくてできないと感じます。そしてそのように止められない薬指の「震え」が体のほうに伝わってきて、薬指に体が同期するような感じになります。すると横から押されたりしても人差し指の時よりも安定します。

 

整体の稽古は、いかに意思(無自覚で自動的なものも含む)を打ち消した状態をつくり、もともと意思とは関係なく存在したものと体を同期させ、その状態を展開させていくということ、自意識や意思と一体化して止まった「時間」と化している体を自意識や意思から切り離していくということをやっているのかなと思っています。

 

非常に面白いと思ったのが、この前の読書会で知ったボルネオのプナンの人たちの言葉では薬指に名前がないそうです。他の指には名前があるのに、その指には名前がないのです。名前をつけてしまうと、それは意思とより連動してしまうので、薬指の役割をもっとも生かすなら、名前をつけないというのが理にかなうことだと思います。読書会参加者によると、薬指は他の文化でも魔法の指と言われたり、名無し指と言われたりするそうです。

 

 

kurahate22.hatenablog.com