降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

わたしという「止まった時間」とその付き合い方

友達に誘われて操体法的なお話し会に。

 

具体例を聞いて色々と腑に落ちるところがあった。

 

意志と感覚は相反する関係。
より意志で操作しようとするとき、感覚は消えてゆき、逆に感覚が優勢になるとき自分の意志は消えていく。

 

意志は、過去、記憶、止まったもの(死んだもの)に基づくものであり、感覚は現在動いているもの、生きているもの、変わっていこうとするものであり、プロセスそのもの。

 

感覚とプロセスは連動している、近しいものであるというより、感覚とはプロセスそのものだ、という理解のほうが妥当だろうと思える。痛みという感覚があるならそれはプロセスそのものだと理解する。

 

お話ししてくれていた方本人のエピソードで、自分自身の体へアプローチしてやろう、痛みを消してやろう、治してやろうとしているときは状況は停滞していて、気づいていなかったことを発見した時に、痛みが変わったという。

 

治してやろう、痛みを消してやろうは、意志の強制であり、意志を働かせて強制的に状況を変えようと考えているとき、プロセスは止まる。そういうふうになっているとき、自分は過去のものしか見えていない。

 

知らなかったもの、新しいものが状況を展開させる。自意識が自分を支配しきれないとき、新しいものであるプロセスが間隙を縫って動き出す。

 

プロセス(=感覚)を「時間」という言葉でとらえている。自意識、言葉を通して認識される自分は、止まった時間だ。

 

よって、その止まった時間が動いているプロセスを直接に進行させることはできない。止まった時間であるものが時間を動かすことはできない。止まった時間は動いているものを、自分と同じように止めることしかできない。

 

意志は、間接的に働かせる。そして意志の働きが打ち消されるように状況を設定する。街角、帰りがけ、サードプレイス、そういったものは意志の自動的な統制に干渉をかけ、統制を弱くさせる。そのような場、境界におもむくことは、意志によって、意志を打ち消す場にいくということだ。

 

自意識は言葉によって構成されている。言葉の支配は自動的であり、プロセス、変化は止められた状態になる。境界とは、言葉の意味の境界であり、どちらつかずのそこでは、意識の支配は弱められる。

 

止まった時間を成り立たせているものを止める。そのことによって、間接的にプロセスは動き出す。自意識を本当の自分だとか、動いているプロセスだと思ってしまうと、停滞する。言葉を通して認識されたものは、止まったものであり、過去のものであり、既に閉じているし、行き詰まっている。

 

自分の意志の力を働かせて、何かを強制的に自分にやらせて自分を変えようとするのはうまくいかないし、本質的な変容がおこらない。私はこんなに変わったのです、という時に、その人の価値観は変わっていない。頭のOSは古いまま。感じ方、思考も同じままなので、やがて同じ行き詰まりに入る。

 

意志での強制は状況を質的に変えない。自分は自意識でしかないのに、ならばどうすればいいのか、と思うかもしれない。間接的にやることが状況を変容させる。

 

確かなものを蓄積するように、決めつけていくように、知識や技術を身につけると、自分の殻を厚くする。ここも間接的にやるのが妥当だ。つまり確かなもの、これとわかっているものを蓄積していくのではなく、わからないものを探究するということが、学びの姿勢として妥当であり、そこで実際の展開はおこってくる。これが絶対だと思うものを積み上げていく勉強ではなく、探究をするというところに学びがあり、表面的でも、反動をおこすものでもない質的な変容がおこる。

 

学ぶとは出来上がってしまった今の自分自身に対する反逆であると思う。

 

治そうとしたらプロセスはとまる。知っているものとして何かを操作することは、自分に変化をおこさない。知らない、と現実を認めないと何も変容はおこらない。自意識自身が止まった時間なのだから、それを出し抜く必要がある。

 

どれだけ自分に蓄積できるか、能力を向上させるか、を求めるとそのこと自体によって変化のプロセスが停滞するというジレンマがある。獲得したものは、終わったものであり、それを自分の本質だとか価値だとか思うと、次のプロセスが停滞してしまう。

 

感じ方の変化は、よくも悪くも自分の予想をこえる。あるいはずれる。古い自分の思い通り変化していくことはできないし、そのことにそれほどの意味はないと思う。

 

そういう変化だと、社会はより生きづらくなるだろう。自分が変わる必要がないもの、強いものは、ずっと古いままで、新しく生まれて来ようとするものを抑圧する。

 

今の自分の価値観から、どれだけ自分が変わるかとか、獲得するかを求めても結局行き詰まる。気づいていないもの、既知のものに回収されないものとやりとりすることが重要であり、それが結局自分(という自意識)の見える風景、感じ方を一新する。

 

自意識が獲得や蓄積を求めているように思えるかもしれないが、結局は自意識は古い見え方自体に倦んでいるのであり、同じものを求め続ける古い自分が終わることがその自意識へのプレゼントなのだと思う。