降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

個人の変容と社会環境の更新は同時的ではないのか

話しあいの場があり、あらためて考えたことを。

 

個人の内面が変わっても社会の仕組みが変わらなければ何も変わらないのではという意見がでる。あるグループや組織のなかで、マイノリティの占める割合を多めに固定するといったような海外のアファーマティブ・アクションの事例が紹介される。そう考えるならば次の発想としてはとにかく仕組みを変えるために社会システムに働きかけていく力をため、運動をやっていくということになるだろう。

 

その考えにはもちろん一理あると思う。しかし、その社会システムに働きかけるに足る力を獲得していこうとするとき、結局は大きな力が重要なのだという結論に行き着かないだろうかと思う。

 

社会を変える大きな力はどのように得られるか。個人の並外れた努力や才能、あるいは組織のマンパワーや凝集性というところに着地するとき、組織におけるマイノリティの抑圧がおこる。

 

 

飯野由里子さんはインタビューのなかで日本のフェミニズム運動がバックラッシュに対抗し、フェミニズム内の凝集性を確保するために、性別二元論を肯定するスタンスをとったことを認めている。

 

よく覚えているのは、当時大学院生だった私に、あるベテラン研究者が二者択一的な議論を持ちかけてきたことです。

バックラッシュ側は『フェミニズムは男らしさや女らしさを否定している』『文化を壊そうとしている』『中性人間を作ろうとしている』と攻撃してきています。

そこで、『フェミニズムは男らしさや女らしさを否定しているわけではありません。性差別を問題にしているんです』と言いたい。飯野さんはどう思いますか」と。

私は「フェミニズムは男らしさや女らしさの作られ方を問題にしていると思います」と答えました。男らしさや女らしさは社会的に構築されるものですが、それが非常に固定的であったり可能性の幅が狭かったりすることで、多くの人の生きづらさや、差別につながっている。

フェミニズムはそのことも問題にしている、と。フェミニズムはそのことも問題にしている。つまり、性差別を問題にしているだけではなく、ジェンダーの自由も求めてきたはずだ、と。

しかし、03年の女性学会幹事会有志による『Q&A男女共同参画をめぐる現在の論点』には、ジェンダーフリーは「男らしさや女らしさを否定するものではない」という旨が記載されました。

「中性人間を……」という攻撃にしても「中性人間なんているわけないじゃないか」「右派が作り上げたイメージに過ぎない」と言うにとどまってしまった。現実には中性人間と呼ばれ、いじめられたり職を失ったりしている人たちがいるというのに。


マイノリティ女性は声をあげてきた、でも…2021年に考えたい「日本のフェミニズム」の問題点【フェミニズム研究・飯野由里子】 

 

sisterleemag.medium.com

 

僕は結局大きな力での闘いで勝つことを自身の方向性にしているとき、運動は運動内のマイノリティ抑圧に向かうだろうと思う。凝集性のためにマイノリティは犠牲になり、わかりやすさで力を集めるためにそれに都合の悪い多様な立場は排除されるだろうと思う。

 

今の運動や活動に希望を見出そうとする人のあり方を否定する気はないが、僕個人は表面的にはそう言ってなくても結局は力の理屈に帰着する活動や運動ではないあり方をとりたいと思う。結局は力が重要なのであってというふうに力の理屈に帰着してしまうところでは、実際には結果のために個人は並外れた努力や能力を要求されるだろうし、「正義の勝利」のために実態上の抑圧体制がしかれると思う。「社会が変わるために」という「正しさ」は非常に危険で抑圧的になりうる。

 

おそらく多くの人と違う僕の立場は、たとえ大きな社会の環境が「改善」されなくても一人の人が一人の人として救いを生きることが重要だというものだ。社会環境の改善のために抑圧や我慢を引き受けた結果、それでも堅牢な社会環境が改善されなかったとき、誰かを憎んだり恨まずにそれを受けいれることができるだろうか。

 

社会とはいわば勝ったものの社会なのであり、その構成を変えるためには働きかける側も勝っていかなければならない。だが勝つことに希望を見いだすことは結果的に自分自身や他者を抑圧したり動けなくしてしまうことにつながらないだろうか。これこれがないと変わらない、意味がないと個人が絶望し、動きをとめてしまうこと自体が最も個人を停滞させ、可能性を奪うものであるのではないかと僕は考える。

 

また、まずアファーマティブ・アクションのような仕組みを実現し、それによってようやく社会が変わる、そうしないと社会は変わらないととらえているとき、逆境のなかでよりよい仕組みを作りだす人たちと、力や考えがなく、与えられた仕組みに従うことでようやくあるべき姿に近づける人たちという二種類の人が想定されていないだろうか。そして多くの人は後者であるととらえられていないだろうか。その考えには人間に対する、ひいては自分自身に対する深い絶望がないだろうか。

 

ではどのように考えたらいいのか。「むしろフェミにとって大事なのは」とツイートしている菊地夏野さんのツイートを糸口に考えてみる。

 

僕は人の変容はどのようにおこるのかということを自分なりに探ってきた。そして教育哲学者林竹二と被差別部落の学生たちが通う定時制湊川高校の出会いを知り、今の認識にいたっている。それは強く抑圧され、傷つき、行き場を失っている人こそが大きく変容する人たちだという認識だ。

 

林竹二は、自分は湊川高校の学生たち以外にも同じ授業を行ってきたが、湊川高校の学生ほど大きく変化したケースはなかったという。そのあまりの変わりぶりは教育に絶望していた林を回生させたほどだった。僕が読んだ対談のなかでは林はそれがなぜなのかまでは言わなかったが、傷つき、強く抑圧された人が最も変容を必要とし、また大きく変容しうるのだということは僕の確信となった。

 

糸口はここにあると思う。第一にあるのは、いかにすでにマジョリティである人に理解してもらえるように訴えるか、働きかけるかではなく、切実に変容を必要としている人に応答することなのだと思う。それはちいさくとも実際の社会環境を質的に、また不可逆的に変容させていると思う。社会制度を変えることを第一にしている人から見ればそれは善行ではあっても社会に影響を及ぼすにはちいさすぎる行為かもしれない。しかし、個人の救いという観点からみたときには、実質的なのはこのあり方しかない。

 

大勢を救い大勢を導くリーダー的視点から物事をみることと、一人の生きている当事者として物事をみることは、そこから導き出される結論が違う。僕は後者の視点に立つことによって、個人は時代の閉塞に閉じ込められることから抜け出ていけると思う。リーダーの視点からみるならば、自分というちっぽけな能力も何もない存在、役に立たない存在を受け入れることは難しいだろう。

 

僕は何が生の実質なのかを考えてきた結果、「社会」が変わらなかったら自分も不幸だというような「社会」の改善と自分の幸福を同一視した考え方にされていること自体がおかしいのだと考えるに至った。なぜなら一人一人はたまたま明日に事故にあって死ぬかもしれないし、今まで通りの生活がほとんどできなくなってしまう可能性を持っているし、社会がいいように変わったあとまで生きているとは限らない。そして社会環境が大きく改善したというような時には必ず誰かがその成果の代わりに犠牲になり死んだり大きな不遇を引き受けているのだ。

 

その犠牲者に自分がならないとは限らない。いや、その犠牲者になることを前提にしないと生きることは肯定できない。「たまたま運が悪かった人」こそ、むしろ生の本質を表しているのだ。パートナーを驚かせようとして深い落とし穴を掘り、自分も共に落ちてなくなった人がいた。あるいは寮の塀を乗り越えて外に出ようとした看護学生だったかが太ももを鉄条網で深く傷つけてしまい、翌日死んでいるのが発見された事件があった。そのような死を一体どのように受け入れられるのか。不条理と意味のなさを引き受けることは、逆にがんじがらめに社会から規定されていた自分のあり方を破綻させ、解放する。意味はない。ならば救いを生きることができる。

 

「救いというのを社会を変革することというふうに考えないほうがいい。俺が多数ということに関心がないのはそのせいです。「人」が救われればそれでよかですたい、俺は。社会変革とか多数とかへ向かうと、コントロールしようという意志が働く。ひとりでも救われればいいという気持ちに徹することだ。そしてほんのひとりとでも出会えたらいいという思いが、俺をコントロールとは逆の方向へと運んでくれるだろう。ひとりひとりに出会う。結局これしかないんです。これがあればこそ、たとえ世界の終末が来ても、あの人がいる、この人がいる、と心に思い浮かべることもできるというもんです」 緒方正人『常世の舟を漕ぎて』

 

 

一般的には、個人と社会は別々のものと考えられている。「社会参加」、「社会進出」などという言葉があるように、「社会」は承認された営みに関わってはじめて参加できるものとされている。だがそれは間違いだ。自分自身が既に社会であるという認識へ転換したとき、動きだせるようになる。

 

「社会」に関わっていないから「社会」にかかわろう、何らかの「社会」的活動を自分はしていないからまず「社会」的活動をはじめないといけないけれど、でもできないというように、まず超えなければいけないものを設定する考え方が自動的に停滞を生んでいる。既に自分は社会であり、動いている。必要なのは今の自分におこっている動きに対する応答なのであって、テンプレート的な「社会参加」や「社会的活動」なのではない。

 

自分におこっている動きに応答を続けることで、自分のいる社会環境の実質は変化していく。

 

心理カウンセリングにおいては、社会自体の問題は不問にされる。問題はそこに適応できない個人の内面の問題なのだとされる。社会と個人の内面は別々のものとして孤立させられている。だがその近代の個人や社会の定義自体が実態と乖離しているのだ。個人は自己完結した存在ではなく、環境に応答し、自身と環境を共に変化させ続けていく動的な存在だ。私というもの自体が変化していく動的な社会現象であるのだ。

 

そのことを実感し、奪われていた認識を取り戻していくことが社会主体としての本来の個人を取り戻していくことになるだろう。そこでは私の回復は社会環境の回復であり、環境に応答し、環境とともに変化していくことは終わりなく続いていくものとなる。個人と社会環境は全く別々のものではなく、同じものだ。

 

そこでは力がなければ社会は変わらず自分の救いもないという絶望は回避される。もともと自分とともに社会環境は変わり続けるものであり、ただその営みを続けていくだけであるからだ。大きな力は必要がない。自分の力でできる世界への応答を続けていくことが自分を回復させることであり、同時に社会環境が更新されていく一致にもどるのだ。