降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

100個の時間 止まっている時間を動かすものとしての文化空間・サークル

鶴見俊輔「なぜサークルを研究するか」を読む。鶴見俊輔以後でサークルの研究を続けた人はいるのだろうか。いるかもしれないけれど見つけるのが大変そうだ。

 

サークルは、人を普段と別の時間の流れに連れていく。別の時間の流れにいるとき、想像もしない変化がおこっていく。

 

たとえばある人のなかに100個の時間があったとしよう(ここで時間とはプロセスという意味)。それぞれの時間は、それに対応する条件が揃った環境で動きだす。逆に条件を揃えなければどこも動き出さない。時間は止まったままだ。人間の可能性とは、潜在して動きだすのを待っている時間の可能性なのだと思う。

 

人間を空っぽのハードディスクだと考えて、そこに預金型でデータや決まった行動を取るように教育する捉え方がもたらす疲労感。

 

一方、時間は自律的であって、時間を動かしていくと捉えると、自分でもどこにいくかわからないし、自分がどのように変化するかもわからない。後になって自分がこう変化したと知るばかりだ。

 

100個の時間は100個の種のようなもので、それぞれ一個の生命のように自律的な力動や展開をもっている。

 

自意識は思う。自分には何もないと。実際、自意識には何もない。力をもっているのも、可能性をもっているのも、それぞれの時間(種)それ自体だからだ。種はノックしている。応答を待っている。

 

サークルは自律的な文化空間だ。サークルは、時間に応答するために非常に適した媒体のようだ。