降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

報告 西院ひふみ荘でのワークショップ「わたしの「時間」を知る」

西院ひふみ荘でのワークショップ「わたしの時間を知る」終わりました。もともと雰囲気のあるシェアハウスなのに加え、リニューアル前の貴重な終わりの時間を少しだけ共有させてもらいました。

 

べてるの家で、メンバーが一番変容するのは、誰かのお葬式を経るときだと聞きました。親が子に与える最後の教育は、自分の死にゆく姿を見せることだとも聞きます。最後の「時間」は、その時間を共有した人を変えるような力を持った「時間」なのだと思います。

 

ワークショプでは、時間と「時間」の違いから始めました。ワークショプを受けた人が「括弧つきの時間」というときは、何かが変容するプロセスとして時間のことです。

 

一方、外部から自分を支配し、縛るものとして格好のない時間があります。「いい時間を過ごした」という時の時間は括弧つきの「時間」です。

 

「時間」が優勢なとき、格好のない客観的な時間は後ろに下がり感じにくいものになります。ぼーっと夕焼けをみている時、本当に没頭している間は時間を忘れています。

 

反対に客観的な時間の感覚が優勢なとき、プロセスとしての「時間」は感じとりにくいものになります。あと5分で移動しなければいけないと思いながら何かに没頭することも難しいでしょう。

 

同じように日常語で使われていても、時間と「時間」はまるで逆で、相反するような、物質と反物質のような、お互いを消し合うような関係にさえ見えます。

 

「時間」には力があるように思います。藍染めの時に、溶液につけたものを空気にさらすのを何度も繰り返すと聞きます。自分という意識が失われるほど没頭した「時間」は、自分に染み込み、確かに自分を変容させていくと思います。

 

今回は、「時間」が止まることと「時間」が動くことについて、自分の見え方がまた少し得られたかなと思いました。単に動いているほうがいいということはないのだと思います。

 

ひきこもりのような、何年も自分の「時間」が止まったように感じられる時間には、深い意味があるのだと思います。表層の「時間」があり、また中層や深層の「時間」があるように思えます。

 

表層の「時間」が動かなくなった時に、自分という殻が崩れながら、中層や深層の「時間」が動こうとするような気がします。深い部分の「時間」の動きは非常にゆっくりですが、質的により大きな変容をその人におこしうるように思えます。

 

今の自分で、より簡単に解決できる問題に比べ、より難しい問題に直面した人は、自分の殻が崩れるということによって、より深い部分の「時間」の動きにつながっていくことができるように思うのです。もちろんそれは命がかかった危機を伴うものであり、何ら回復が保証されているものでもないと思いますが。

 

参加者のそれぞれの「時間」に関わる語りは、場を共有するそれぞれの人の同じ深さの層に響いているように思えました。「時間」とは変容のプロセスとも言えますが、同時にそこにある響き、そこに生まれる響きのようなものであり、減るよりもむしろお互いの存在を経て増幅し、人と場を満たしていくようなものであるのだと思います。