降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

11/8 リードイン 感想

リードイン。

リードインは鶴見俊輔がやっていたとされる集まりで、他者の言葉と自分の言葉を持ち寄って場にシェアするもの。(しかし実際の場に出たことがないので、決まったかたちを知らず、色々実験的にやり方を微調整しながらやっている。)

 

今回は自分が一参加者の立場で新しい人たちと出会う。

 

持ち寄られたことばは全くバラバラであるようで、場にはぼんやりとだが、名づけられない星雲がかたちづくられていくようなプロセスが生まれている。


場に出てくることばによって自分に残っている問いをもう一度考える。緒方正人さんが重要だと考える「ひとりであること」とはどういうことなのか。タゴールは、誰も呼び声にこたえなくても/ひとりですすめと書いたそうだ。そのひとりとは何だろうか。

 

自分を風船にたとえて考えてみよう。その風船には穴が空いていて、空気を入れてもそれが抜けていく。抜けていく空気を補うために世間が提示するものに従っても抜けが止まらない。穴がどこにあるのかは、自分も他人も気づいていない。そして穴に気づいても、その穴をまさに埋めるために必要なリペアキットは世間にはまだ存在しない。

 

抜けていく空気のあり方がどのようなものであるか、そして穴がどのように埋められるのかも全て自分自身で探り確かめられていく必要がある。場当たりのものでごまかすのではなく、本当にその抜けの終わりを求めていくならば。

 

世間は既に自分が知っていることの範囲で、そしてとても巧妙に、世間自身に都合のいいかたちで個人がやるべきことを提示してくるだろう。だが世間はつまるところ既知に閉じた反応であるだろう。その反応とは世間自身のあり方を変えようとするものに対する抵抗であり、世間の欺瞞を塗りこめることにとても都合がいいことへの諸手をあげての迎合だ。

 

穴を埋めていくためのひらけはどのように生まれるのか。自意識とは閉じた既知であって既知におさまることをやっていても自分に騙されて状況は変わらない。結果として自分が変わらないためのアイデアが状況をひらく「名案」としてどんどんと出てくるのだから。

 

ひらけは自分の既知の外にある他者への応答をきっかけとして生まれる。今度は埋める穴ではなく、あける穴だ。頑強で閉じており、欺瞞そのものである自意識に距離をとる。閉じた牢獄が揺り動かされ、今の閉じた繰り返しのままではもう成り立たなくするような状況を設定する。

 

他者への応答は、どんなものに対してもできるものではない。というか、応答は本質的には「おこる」ことであり、やることではない。応答がおこるところで、自分と世界の関係性が変容し、世界との応答関係が回復していく。

 

純粋に自分のために埋めたと思う穴も実のところは自分だけにおさまってはいない。むしろ他の人は発見できなかったからこそ他の人の穴を埋め、回復のきっかけをもたらす。

 

自分がどうするかという自分に閉じた思考ではなく、世界や他者の存在を前提にした「応答」として考えることで堂々巡りは終わる。「応答」を前提に考えることで実際的な思考になる。

 

緒方さんは加害企業であるチッソの会社の前にひとりですわりこみをしようとしたとき、実際の行動にはいるまでに半年ほどの時間を要したという。逮捕されるかもしれないし、石を投げられるかもしれない。しかしただひとりで「自分をさらす」ことの必要性を緒方さんは直観していた。

 

他者としての、プロセスとしての変容は、緒方さんに対してチッソ前で自分をひとりでさらすということを求めていた。変容していく自律的なプロセスは、自分が向き合うべき苦しみであり、この固まった自分の不本意な繰り返しを終わりにするように自意識に圧をかけてくる。自意識はこの圧がどこからくるのかを知らない状態から圧に対して応答していくことでこの圧の源をやがて知っていくようになる。

 

ことばによって一旦世界の大部分が既知の延長にすぎないものとして対象化されるとき、生きていた世界は死ぬ。まどみちおのせんべいが紹介されていた。

 

せんべいがもの言わないなどと思っているのは大人だけだ。

子供はせんべいを食べるとき,一々せんべいの言い分を聞くし,

又自分も返事をしてやっている。


だから子供がめんこのように大きいせんべいを持っている時など,

余り二人仲がいいので,どちらが子供やらせんべいやら分からなくなる。
まど・みちお『煎餅と子供』

 


ことばによって全てを対象化してコントロールしたい不安と本来の応答関係を生きることは相克する。大人として生きることは世界の大部分を過去として、変わらない、死んだ世界として相手することなのだろう。


他者である変容のプロセスに応答することは、閉じた自分を揺さぶり終わらせることであり当然の抵抗がある。しかし自分自身を自意識ではなく変容のプロセス自身なのだという実感が強まっていくとき、自意識のもっともらしい拒否の理由が自分がうんざりしている過去の繰り返しにひきもどすものでしかないことがわかってくる。

 

緒方さんの「さらす」ことは、自意識の頑強な牢獄を守ってきた理由を捨てることであったのではないかと思う。今まで自分が背負ってきた「正しさ」や「揺るがなさ」に守られることを自分の救いのために捨てる。自意識は自分を直接変えることはできない。ただ変容のプロセスが求めていることに対し応答することで、牢獄であった自分自身を終わらせていくことができるようだ。

 

リードインでは、田中小実昌の「オチョロ船の港」も紹介された。主人公は島で「阿呆らしい」と言いつつ放尿する女性の姿に衝撃的に出会う。主人公の予期の範囲をこえた、自律的な他者との出会いは、ブーバーの「我ー汝」関係そのものではないかと思えた。「我ー汝」関係は、素晴らしいとか、そういう既知の間尺におさまることではなく、自分の閉じた世界が他者によって解体され塗りかえられてしまう出来事をもたらす関係であるのだと思う。

 

あと思ったのは、たとえ自由に話していいと言われていても、参加者は思いつきを話すことに抵抗がある。これを喋っていいのかなと思い、これは面白くないかも、場の文脈にあわないかもと思って抑えてしまう。理想的にはことばによる許可だけではなくつい話してもいいかと自我の抑えが弱くなる場の状態が生まれてくることが重要だろう。

 

自分がその時に思いついたことは、身体が場に応答しているのであり、自意識でなんでこれが言いたいのかとかを理解してからいう必要は全くない。むしろ何かの実感を持ちつつ、何がどういう脈絡なのか自分でもわからないようなものの表現は周りの人や場の状態を直接変えていく重要な要素となる。

 

ついでにいえば、もちろん自分のいうことは面白くないかもしれないが、周りの人にしたってこの場でそこまで面白くてたまらないことを求めているわけではないし、「面白さ」のハードルをあげられたら自分も話しづらくなる。

 

僕はその人が完熟堆肥のような、自分の中で整理され反応が終わりつくしたことが話されるよりも、よりリアルタイムで、今その人のなかでおこっているプロセスをことばにのせていればそれで十分に興味深いと思うし、言語的に説明されてなくても伝わってくるものがある。また「隗より始めよ」で、ああこんなこと話しても大丈夫なのだと周りが感じるのも重要なので、探究的に今の自分のプロセスをことばにのせることは場を消費することではなく、肥やすことだと自信をもってもらいたい。