降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

言葉の更新 「私たちのは学びであり、あなたがたのは回復である」ところから

対話の文化祭のワークショップでも話したのですが、学びと回復ということは別のことではないと考えています。一方が教育分野の事柄であり、もう一方が福祉分野の事柄であるようなことではないと思います。

 

ある人が変容したことを学びとは考えず回復としてだけ捉えたり、逆にある人が学んだという事態をその人の人としての回復としてとらえないことは、よく考えるなら、人を馬鹿にしたとらえ方だと思います。

 

私どものは学びだけれど、あなたがたのは回復ですというわけです。

 

回復という言葉は、元にもどるという意味なので、元でなかったもの、元より下になったものが元にもどる、「普通(=あるべき姿)」にもどると考えているようです。元というのは私たち(=あるべき姿としての「普通」、ニーチェ的な批判をもっていうなら、より「劣った」集団を設定することで自分たちを「人間」(=価値あるもの)と位置づける昔からのあり方。)であり、回復とは「普通」である私たちに近づくことだという傲慢な見方です。

 

僕は今は回復という言葉はあまり使わないのですが、それでも回復という言葉をもう少し妥当に位置づけるなら、回復は世間一般の「普通」にもどることではなくて、人間としての本来性に近づいていくということです。働けるようになったから「はい、回復。」ではないのです。

 

学びと回復を一つのものとしてとらえるという話しにもどります。そこに共通するのは、変容がおこった時に世界の見え方や感じ方が更新され、変わるということです。それまでの自分のあり方が変わります。

 

変容や変化といったときに、「悪く」変わる場合もあるだろうと思うかもしれませんが、「悪く」変わった場合は、自分は別に変容してなくて、むしろ以前の自分に不本意ながらとどまり続けるために「悪く」なるのだと思います。

 

教育哲学者林竹二が指摘するように、学びとはカタルシスです。カタルシスといっても、それは単に感情的なうっぷんを晴らすようなことではなく、自分のなかで、繰り返す停滞をおこしていたような固定的な構造を解体するものです。

 

パウロフレイレは人間とは、本来的な人間へと移行していくものであり、その移行していく状態、プロセスにこそ人間の本質があると考えました。その意味では、より困難な状況にある人が変容していくことは、今現在は変容の過程から遠のいている「善人」よりも人間としての本質を体現していることになります。

 

回復という言葉は積極的には使わなくなったのですが、出会い、対話、学びという関連しあう言葉はまだしばらくは使うかと思います。

 

言葉は、定義の仕様によっては、生きたものを死んだものにし、逆に死んでいたものを生きたものにもしうると思います。たとえば回復を世間的な「普通」にもどる回復と位置づけるなら、そんな言葉はないほうがマシなのではないかとさえ思ってしまいます。

 

べてるの家の人たちは自分たちのボキャブラリーを作っています。それは単に変わったようにいっているのではなく、彼らが探究して掴みとった現実をあらわしたものです。

 

たとえば、病気をプロセスととらえず強制的に薬で「治し」てしまうと、本来その人が得られたはずの新しい人との関わり方や世界との関わり方をその人から遠ざけてしまいます。べてるの「勝手に治すな自分の病気」という言葉には、そのように、世間より一段深い現実の認識があるのです。

 

「病気」をプロセスと考えず、単に悪いものと考える世間の風潮、前時代的考え方があるなかで、べてるの家のように、「病」=「悪」から「病」=「新生」と言葉の意味を更新することで、世界との関わり方はより妥当なものになっていきます。

 

フレイレは、実践によって、本当の言葉が作り出され、本当の言葉に導かれ、実践はより妥当なものとして変化していくと指摘しています。「病」=「悪」とするところでは、次の実践が生まれていきません。言葉をより本当のものにしていくこと、現実をつかむものにしていく必要があると思います。

 

行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。

行動という次元から根こぎにされた言葉は、当然の帰結であるが省察とも無縁なものとなり、聞く者と語る者の双方を疎外する。泡のように虚ろな言葉からは真の現実否定も変革への意思も、ましてそのための行動も期待することはできない。他方、行動だけを強調して省察を犠牲にすると行動のための行動に邁進することになり、真の実践は否定され、対話は不可能になる。 里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

 

 

さて、言葉の定義に戻ります。対話は「する」ものではなく「おこる」ものだと考えていると繰り返し述べているのですが、世間的に対話を「する」、対話の場を作るという時は、対話という変容のプロセスがおこりうる状況設定をすることだと考えています。対話とは変容のプロセスであり、それは「する」ことができません。ただそれがなるだけおこりうるような状況を整える、ということができるだけです。

 

「対話」を専門にしている人でも、当事者や近い人からあなた本当に対話しているのと訊かれることもあると思います。そんな時にいやいや私は対話しているよこんな風に、とか相手に言っても仕方がありません。その応答は対話がおこる整えとしては機能しません。

 

あくまで意思的には状況を整えるということができるだけであって、私は「対話」の専門家ですから、私が対話すると言えばそれは対話なのです、は現実的には成り立っていないのです。同様に、どのような人であっても意思的に対話そのものをすることはできないのだと思います。

 

ただ、世間では状況の整えのことを「対話する」と言っているので、世間の言い方なのだなと理解しています。でもその世間的理解で全部すませると理解をより深める方向へとはすすんでいかないと思うので、フレイレもいうように、より妥当な位置づけを探っていく必要があるのだと思います。

 

ある言葉の定義を今のままの理解にせず、機会があればより妥当な位置づけをしていくことで、ある言葉は次の思考を切り開くものにもなりうると思います。

 

最後に、出会い、対話、学びという言葉を位置づけしなおしたいと思います。最初からこれを書くつもりだったのですが、前置きが長くなりました。まず出会いというのは、他者との関わりにより自分のあり方が一新される、更新される出来事であると思います。(これは宗教哲学マルティン・ブーバーの考え方ですが、世間で使われている「出会い」という言葉のなかにもこの意味は底に含まれていると思います。)

 

学びというのもこの出会いと重なる部分が多い言葉です。
学びは、更新に向かう世界との関わりです。(出会いは「出来事」でした。)

 

ただ本人の意図の有無に関わらず、変容のプロセスがともなうやりとりがあるときが学びなのであり、この変容のプロセスがともなわない、知識や技術の蓄積はいわば「習得」であり、学びという更新とは区別します。

 

単に知識や技術が蓄積され、自分が強化され、自分の殻がより厚くなったとしたらそれは学びとはいえないと考えます。そうなってしまえば、学びという方向からはむしろ遠のいているのではないかと思います。

 

学びは蓄積であるよりも、むしろ今までの自分のあり方が解体されることです。その時、自分の世界の見え方や感じ方が一新されます。

 

預金型教育のように、自分の準備や状態、プロセスとは関係なく一方的に働きかけられるとき、そこに自分の変容のプロセスはおこっていません。自分のなかにあるものに応じ、世界に働きかけ、そしてその働きかけに対して、世界や他者から応答されるとき、変容のプロセスは続いていきます。

 

この変容のプロセスが続いていった結果として、出会いという更新がおこるわけですが、この変容のプロセスにあること、このプロセスに入ることを学びと位置づけたらいいのではないかと思います。

 

「対話」は、出会いが更新という事態そのものをさすとしたように、変容のプロセスそれ自体をさす言葉とすれば、おさまりがいいかと思います。つまり変容のプロセスに入ること、入っていくことが「学び」であり、そこでおこっている変容のプロセスが「対話」というわけです。

 

変容のプロセスである「対話」を抜きにした「学び」はありません。「対話」は「学び」の前提条件です。対話なき学びがないように、学びなき対話もないでしょう。学んでいれば対話がおこっているはずだからです。

 

そして変容のプロセスが続いていった先に、自分の感じ方、見え方が更新される出来事(=出会い)があります。

 

最後と言いましたが、さらについでにいえば、この変容のプロセスに入ることを阻むのは人間の殻の強さということになると思います。自分の弱さを感じなくさせるために厚くなり、発達した殻は揺れること、変化していくことに自動的に、ともすれば無自覚に抵抗や拒否をし、遠ざかります。

 

殻の強さは相当なもので、いわば自分というのが殻そのものです。多くの人は自覚なく殻を分厚くすることで生きのびていくという生存戦略をとっていると思います。事故や病気、不遇など受難によって殻が壊された人が大きく変化するのは、このためだと思います。そうでない人はできあがった殻があるために、その殻が壊れないとあまり変われないのです。

 

「順調な」人は、ごく自然に世間の殻を身につけていきます。それは弱きもの(自分自身のそれも含め)への共感を自然に感じなくなっていくということでもあると思います。

 

ただこの圧倒的な殻の強さがあっても、学びのための整えをすることは人間に残されていると思います。世界に対し、自分自身のなかのものから働きかけ、応答を感じることが人間にとっての最も大きい充実であると思うので、世界と直接に応答関係を結び、その応答を続けていくことは殻の弊害や厚さを薄めていくことにつながるのではないかと思います。