深く傷ついた人が切実に自分の回復を求めること、求めてしまうことは理解できる。
だけれど、同時に複雑な思いをもってしまう。
回復にあかつきに、何か本当のものが得られたり、本当の生がはじまるわけではないと思うから。もちろん、何かの苦しみが消えた大きな解放感があり、世界は新鮮に感じられるだろう。
しかし、そこに現れた世界は回復前と変わらない残酷さをもっていて、世界自体が変わったわけではないことがやがて実感されてくると思う。生きることの救われなさ、本質的な不条理は変わらない。
回復後を謳歌しようと思っていたのに、病気になったり、思い描いていたような生が送れないときのその人の失望の大きさを勝手に先取りしてしまう。高揚して、空をどんどんと高く飛んでいけることを夢描いていたのに、そこから地に叩き落とされるときのみじめさ。
それは多分、他人のことではなく僕自身にあるみじめさを喚起するような場面をみたくないということでもあるのだろうと思う。
回復を第一目標にしてしまうと、より回復は遅れるだろうと思う。回復は派生的におこるものと考えるのがいいと思う。そうでないと苦しくなるだろう。ただ自分がその時にやるべきことをやったことの結果が回復なのであり、回復のために生きるのでもない。
回復していない人をみて、この人が回復したらこの人の生は充実する、今のこの状態はあってはならない状態だ、と見てしまうことは、強迫がかっていて、その相手の人の心を支えるよりも、何かやらなければいけないような気持ちに追い詰めるだろう。
その人がずっと回復しないそのままであってもいいはずだ。どこか行き着く先があるわけではないのだから。回復途中で死ぬこともあるし、回復できなかったら残念な生だったということもない。意味というのは未来に対しての有用性だ。その有用性から自分をみるということが心の苦しみなのだと思う。
青い空は、世界が自分というちいさな生と関係なく存在していることを告げている。
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生きているものは、圧倒的に放り出されているのだと思う。「達成」した人と「達成」しなかった人の差は、その放り出されぶりからみるならば、存在の無力さ、小ささからみるならば、無きに等しいのだと思う。そしてその実感が人と自分への赦しとなり、優しさになるのだと思う。