降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

オンライン読書会 パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』を終えて

パウロフレイレ『被抑圧者の教育学』のオンライン読書会が一段落する。


自分自身は里見実さんを通してフレイレに出会った。まず感じたことはフレイレの言っていることが現在の社会の状況にそのままあてはまること、そして現状を変えていくために環境を分析するにあたって使えることだった。無論、50年前の南米の状況を主な背景として書かれたことは換骨奪胎しなければいけない。

 

フレイレの革命リーダー論などに関してはやはり前時代のものと思われ、幾分「人々寄り」であれ結局リーダーが導くという前提から逃れられなかったと思う。昨今、「良きこと」の実践を看板にしている団体のリーダーたちの人権侵害やハラスメントが相次ぐ。

 

リーダーとは何なのか。もっと真剣に根源的なところから問われなければいけない。リーダーは自律的に自身を正しいところに維持できるものなのか。周りの人がリーダーを作って彼に色々な問題を放り投げることで周りの人は自ら考える主体であること、応答する主体であることを放棄していないか。そしてその周りの放棄によって、リーダー自身もその人間性が疎外されていくのではないか。当事者研究界隈においては、リーダーが当事者たちの場で生まれた文化を私物化し、企業に販売するようなことまでおこってしまった。

 

フレイレをあらためて読んで、フレイレが述べているのは「対話とは何か」ということに集約できるように思えた。預金型教育への批判、非人間化されたものが人間化すること、そして先ほど批判したリーダー論においてでさえそうで、フレイレがあらゆるところで繰り返し提示していたのは「対話」についてであったと思う。

 

「対話」はしかし現状歪められた言葉になっている。権力が強い側が弱者に対して変容を求める時に使われる言葉になっていたり、(フレイレ自身もそう使っていたのではあるが)対話を「する」もの、「しよう」として意図的にできるものだとされてしまっている。対話という変容のプロセスは「おこる」ことであって、「する」ものでも「できる」ものでもない。できることとは変容のプロセスがおこりうる環境設定であり、それはたとえば一つはお互いの主体性と尊厳を認めあうということだ。

 

なぜ自分が対話を「する」ものではなく「おこる」ものだとこだわるのかといえば、「する」ものととらえている時の傲慢さが話の場で実際に影響するからだ。自分は対話をしていると自分で思うことに恥ずかしさがないとき、それは自分がいかに相手のことを知らないか、無視しているのかを実感した経験がないということでもあると思うけれど、その態度自体が場をもはや終わった場にしてしまう。

 

重要なことは、変容のプロセスがおこることだ。場におけるそれぞれの個人は変容のプロセスに対して謙虚である必要がある。変容のプロセスを主としなければ場は抑圧的になる。香害の話をしていてより症状が深刻な人が自分のような症状でない人に対して「あなたの症状など症状ではない」ということがあったと聞く。どれだけ自分が重い苦労を抱えていたとしても、それは自分が誰に対しても命令をくだせたり人を規定する存在になることを許すものではない。

 

わざわざいうことでもないが、個々人は誰でも抑圧的な価値観をもっている。そのことに対して自覚的になり、お互いに変容のプロセスがおこることを大切にするという踏まえが必要だ。そのことによってお互いが自分に内在する抑圧的な価値観やまなざしから解放されていくのだから。

 

無前提に「正しい人」などいない。そして自分が他者に出会い、内在させていた抑圧的な価値観に気づき、そこから解放されていくということが続かない限り、その人は「正しい人」と思われていてもやがて周りからそう思われる環境自体に疎外され、そうあってはならないありようになってしまうだろう。

 

変容のプロセスを媒介にして、他者との遭遇によって、固まった自身が解体されていってはじめて人は人らしさを維持できると思う。一度出来上がったら腐らない「人格」などないのだ。生きものなのだから。常に循環更新がされているものが生きものとして生きている。プロセスとして生きている。

 

フレイレはいわば「自分」というものが「成長」していくと考える近代主義者であると思ったけれども、同時に近代をこえているところは人を固定的で静的なものとみず、プロセスそのものであるとみたところだろう。そしてそのプロセスは個人内に完結せず、かならず自分の外の世界を媒介させる必要があるとフレイレは指摘した。

 

そこで現実におこっている現象をなぞろうとするとき、自分の認識の枠組みでは矛盾をもったかたちでしかとらえられない時がある。だがそこで矛盾を自分の認識にあわせてなおすなら、むしろそれは後退になってしまうと思う。フレイレの矛盾は誠実さの現れであると思う。フレイレがそこにあることを完全にまとめきれなくても、正確になぞり表現しようとしてくれたことに感謝がある。