降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

9/29 話しの場研究室 発表原稿 自分にとっての場とは何か?

発表1 
自分にとっての場とは何か?

 

【経緯と位置づけ】
心理カウンセリングを学ぶ学科にいた際、人が回復したり、変わっていく場はカウンセリングルームのなかだけではないのではないかと思った。四国遍路の体験、大学院での四国遍路をする人のインタビュー調査などを経て、適切な環境と媒体があれば専門家抜きでも人は自律的に回復したり、変わっていくと考えるようになった。つまり場づくりが重要なのだと思って、30人ぐらいで無農薬の米づくりをするイベントの企画をさせてもらったりした。
 
しばらくして、野外の場ももちろん変容の場になりうるのだけれど、そもそも自分は中学校や高校の頃から内面を静かに語れるような話しをすることが好きだったと思い、話しに焦点をおくところに戻った。少し当事者研究やオープンダイアローグの技法などを使って話しをするということをしたのち、治療や回復を意識しない設定のほうがいいのではと思うようなった。

 

回復ということと、学びということに本質的な違いはないという認識になった。学びがもっともおこりやすい環境を追究すると、それは回復の場に必要な環境でもあった。自分の思うことを言っても大丈夫な雰囲気、人格と意見が尊重されること、など。それらは現在は全く常識ではないので、学問の場で人の間違いを厳しく指摘したり、逆に厳しい目に晒されるのを「覚悟」して場に望まなければいけなかったりする。

 

しかし、それでは発見や洞察はむしろ停滞する。学びそれ自体を重要視するならば、「完成」されたもののみを価値とし提示しあう場ではなく、探究し、発見したり、気づいていくプロセス自体が促進される場が必要であると考える。

 

では次に自分がその場をやることとはどういうことか。

 

場をつくるとは、前回の話しの場研究室でも言及されたように、自分に必要な体験を提供するためだと考えている。他人が設定した場が、必ずしも自分のプロセスにフィットするわけではない。なので自分に必要なプロセスを呼び起こすためには、自分で環境を設定する必要がある。

 

たとえば、詩をかく友人は広告の裏のようなところにしか詩がかけないという。ノートなど、詩を書くつもりで書こうとすると出てこず、どうでもいい紙に詩など書いてないかのように書くとき、詩が出てくるという。どれだけ詩の教室に通おうと、広告の裏になら出てくるということを発見できなかったら、友人は詩を書いていくことができなかったかもしれない。

 

そのように、自分のプロセスがどのような環境条件で出てくるかを知り、それを設定することが、自分で場をつくることの意味だと思う。

 

パウロフレイレはもし他人が考えることがなければ、自分もまた考えたとは言えないと指摘している。自分一人の思考で変わっていくことはできない。自分の思考も、他者との感応(=対話=変容のプロセス)を経て変容していく。それは単なる言葉のやりとりではなく、自分と相手に実際に質的な変容のプロセスがおこるということ。僕が考えるに、相手のなかに動く質的なものがあり、それが自分のなかにはいってくると、自分の感じていたことや思考も変わってしまう。

 

言葉で認識するものは、関連しあい動いている一つの全体から切り取られたものであり、断片的で死んだものであると思う。仕方がないとはいえ、誤ったかたちでしか、言葉では認識できず、表現できない。

 

自分を自意識としたとき、自分とは殻であり、殻は言葉によって構成されている。殻は精神が変容するような、直接の体験をしないように出来上がっている鎧のようなものでもあると思う。

 

しかし、自分と相手の殻が一瞬でも機能を停止したとき、本来的には世界は一体であるので、否応無くお互いは混ざり合い変わる。お互いを響きとしてとらえるならば、それまでのお互いの殻に阻止されていた個別となっていたそれぞれの響きが、まとまった多重の響きのようなものになる。

 

自分が人と一緒に場をやっているのはそういうところ。思考が一人で変わっていくことはない。それぞれの人の自意識や思考、言葉とは独立して存在するプロセスそれ自体の動きに出会うことが自分を新しくする。

 

思考もまたそのことによって新しくなる。自分に着地していない話しを聞いてもプロセスが動いていないので、相手に影響を与えない。その話しには興味深さ、おもむきが伴っておらず、言葉が単に言葉として虚しく羅列されている。一方で、どのような思考や価値観をもっているかにかかわらず、話しの上手い下手にもかかわらず、その人自身が動いているとき、その人はその人が知っている自分でもなく、変容のプロセスとともにある。そのとき、そのプロセス自体が周りに影響を与え、興味深さや空虚でない確かな質感が提供されている。 

 

プロセスが動くこと、プロセスが動きやすくなることに焦点をあてて場を設定する。プロセスはプロセスに反応するところがあるので、まず自分のプロセスが動くことを軸にすればいいのではないかと考えている。

 

自分のプロセスがもっとも動きやすい設定をつくり、それを他者と共有する。商業的な効率を優先すると、プロセス優先は犠牲になる。プロセスをもっとも優先させると考えたとき、場の設定は自然と決まってくる。自分が参加者に提供するのは知識や思考など有形のものではなく、自分のプロセスの動きそれ自体だと考えている。それしか自分は提供できないし、それで割に合う(=自分のプロセスが動く)と思う人がくる、ということでいいと考えている。自分のプロセスが動くなかで、他者との間に(お互いの)変容の接点が生まれる。意味のある世界の変容はそこから生まれるのだと思う。