時間をとめるもの
8月26日(月)にフォロ・オープンスペースで里見実の『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』の読書会をします。
一昨日に非モテ研の西井さんと三重ダルクの市川さんの対談に行ってきました。
お話しはとてもよかったです。僕は最近は回復というもの自体に向かおうとする話しにだんだん関心が薄れてきて前より聞けなくなっているのですが、その状態でも面白く聞けました。
帰りがけに西井さん、西川さん(市川さんではなく。)と一瞬話して、治癒や回復を意思的に目指すこと自体に停滞があるというところはお互いの共通の感覚としてあるのではないかなと思いました。
しかし、治癒や回復を意思的に目指すとか、専門家がイニシアチブをとって人を導くというそのそもそもの発想とか、そういうところに間違いがあるという認識がやってくるのはやってきたとしても大分未来だと思うのです。
何かが発見されたとしても、それを取り入れることを拒否する力があれば場は更新されません。変化へのプロセスは止められたままです。
たとえば、男女平等の度合いについて、世界経済フォーラム(WEF)の調査では日本の平等のランキングは144か国中114位であるそうです。
より平等なほうが社会のあらゆるところが生き生きとしていくというのは、色んな調査で実証されているところだと思います。ではなぜ変わらないのか。
話しの場でも、社会であっても、変化を止めるものは、その場の権力であるようです。権力は変化を止め、時間を止めます。話しの場においては、どのような力がその場を支配しているのか、変えないようにしているのかを知り、それを打ち消すことによって、自律的なものが動きだします。
ジェンダーギャップ指数が114位だというのは、いわばそのギャップのままがいい人たちがたくさんいて、どんなところでも幅をきかせ、その力を譲るまいとしているということでしょう。
だからいくら江戸時代から400年たっても、400年分どんな状況も新しくなるのではなく、後退すらしうるのです。誰かがより力を持とうとするところでは、時代に関係なく、状況は保守化し、後退すると思います。
お子さんを持つ方々から聞く京都の学校の話し、下着の色まで決められるとこがあるとか。たぶんその話しは氷山の一角だろうなと想像します。
時代の流れというふうにいいますが、流れがあるのは川です。外がどう変わろうを変化を拒むものは沼か何かなのだろうと思います。
そのような力を持つことは閉鎖性と関わっていると思います。限られた空間内で力は維持しやすいし、その力がしく秩序が変わりにくいです。でも変化していかない場は淀んでいきます。
結局、変わらないということは、そこに止める力、引き戻す力が働いているということであり、単に新しい認識や知見が示されれば変わるなんていうことはないのだと思います。
知という領域においても、状況が更新されるのは純粋な発見だけでは足りず、その場における勢力図、パワーバランスが変わる必要があるのだろうなと思います。
パウロ・フレイレは、学びとは対話であり、変容がおこることだとしています。知識を提供するだけの預金型教育は、人々から自信を失わせ、自発的な主体であることを奪います。しかし、フレイレがそれを指摘して何年たったのが現代なのかと思うのです。50年です。
強い力が直接に統制をかけているところに変化がおこるのは大変なのですが、実は個々人は自律的に構成する小集団のなかで、属する環境の価値観に同一化することから距離をとり、内面化した価値観を更新していくことができます。できるというか、変化は自律的なものなので、止めているものを打ち消せば勝手に動き出すようです。
そういう理屈は、あまり僕の周りでは出回っていませんでした。もっと難しい本を探して読めばあったかもしれませんが、ある特定のやり方や手順だけでなく、個々人は自分なりに探究し、つかんでいくこともできると思っています。探究のやり方はこれだけ、「真理」への道はこれだけ(そしてそれは私たちが持っているから私たちに従いなさい)ということはないのだと思います。
個人はその内にまだ自分でも意識化や言語化できないような、自律性をもっています。その自律性は応答を続けていくことによって、力強く、より信頼できるものになっています。
26日の読書会では、そんなこんなも少し話せればいいなと思います。