降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

言葉を求めて 歩録:Exhibition/Performance

12時に古書店カライモブックス さんでのチラシづくりワーキンググループが終わり、帰途につく。何か食べていこうと思い、ソーシャルキッチンへ。

烏丸通ではマラソンが行われていて人が多い。人と人の間を自転車で抜けていく。ソーシャルキッチンはもしかしたら満席かなと思ったけれど、幸い座れる席があった。

1Fカフェの上では、古川友紀さんの歩 録:Exhibition/Performanceが開催されている。古川さんのやっていることは見てみたいと思っていたのだが、予約をしようとした時にはとっくに埋まっており、諦めていた。

 

古川さんが来られ、挨拶する。水無瀬でされていた穴場以来だ。あの時は気になっていた近くの長谷川書店にも行って珍しく長いこと色々と本を眺めていた。

 

・・・期せずして当日席で入れていただくことになった。砂連尾理さんも来られている。マスクがあると一瞬どなたかわからなかった。

 

予約は一番最初に情報を知ったときにそのまますぐに入れていれば間に合っていたかもしれない。躊躇したのは、自分の大雑把な感覚に対して、古川さんがとても「こまごましたこと」を大事にされていると思ったからだった。受け取れないまま意識が別のことに飛ぶ、という状態になりそうに思えた。

 

ダンスに関わる方たちに関心を持ったのは、プレイバックシアターやエンカウンターグループなどをされている橋本久仁彦さんとダンサーの野村香子さんが一緒にやっているワークショップだった。心理学系のワークショップにはよく行っていたので橋本さんのことは知っていて関心を持っていた。しかしワークショップでは全然知らなかった野村さんのほうにびっくりしてしまった。

野村さんのリードで次々に指し示されるモノと自分との距離を一瞬で「計測」(もちろん本当の距離などわからないからでっちあげるしかないのだが。)するワーク。部屋のなかから外に出て、琵琶湖と空が見える場所で「雲との距離を!」と浮かんでいる雲がさされた。鮮烈な言葉だった。わかるわけがない。しかし一瞬で自分で決めるのだ。様々なものとの距離を一瞬で決めるのを繰り返していくと意識状態が変わってくる。WSが終わり、帰りの電車に乗った時、電車の奥が見通せるような状態になっていて驚いた。

 

一体ダンサーの人たちは何をつかんでいるのか。砂連尾理さんの介護とダンスのWSににいくつも通ったり、双子の未亡人の佐伯有香さんにWSやってもらったり、伴戸千雅子さんやニイユミコさんたちが各所でやっていた即興の集い「土星の会」を当時住んでいたシェアハウスでやってもらったりした。古川さんも確か土星の会の時に初めてお会いしたのかと思う。

当時はコンタクトインプロの定期レッスンやダンスのワークショップなどに結構行っていた。が、そこから自分の感じ取れることはわずかだった。よくわからない。自分の身体的な感性は貧困で溝のなくなったタイヤみたいなものだと思った。ただダンサーの人たちの言葉は自分に入ってきて、世界がどうなっているのかを探っていく手がかりになった。

 

言葉は自分にとって機械的に増設した神経のようなものだ。直接に身体的な感性とやりとりができないが、代替的に言葉を蜘蛛の巣のようにはりめぐらせて、糸に当たるものの場所や状態を知る。だからダンサーの方々のなかでも言葉でも表現する人のところに行って言葉を聞いていた。

 

歩録の展示は13時からやっており、14時からは古川さんによる展示の紹介がそのままパフォーマンスとなるかたちではじまった。壁面に貼られた川の地図の東西南北が古川さんの声と動きのリードで会場の東西南北にスライドされる。すると地図にあったものが急に立体になったように感じた。止まっていたものがもわっと変化し、うまくとらえられない何かに変わる。

 

その時に感じる抵抗。わからないもの、とらえにくいもの、自分がどう立ち合ったらいいのか定まらないために自分も不定になる不安。はっきり決まる世界に戻りたい、自分が揺れずに対応できるところにいたい。そういう求めが浮かぶ。結局自分はその止まった世界にいたいのだなと思う。不安すぎて身体の世界にいてられない。

ぼんやりしていてうまく捉えられないものばかりの不安な世界をはっきりと見られるようになりたい。それが自分が言葉をはりめぐらせていく理由なのではと思う。

 

パフォーマンスで窓を開ける場面があった。葉っぱが全て落ちた木が見える。外の世界は沈黙しているように見えた。その沈黙に安らぎを感じる。沈黙は言葉が捨てられた状態だろう。より言葉をはりめぐらせたいし、そもそも言葉がなくてもよいところにかえりたい。

 

パフォーマンスで古川さんの身体がモノとかかわる。
自分が普段かかわるそれぞれのモノに対して自分は固定的に関わる。コップに耳でかかわろうとしない。いつも同じように同じところを使ってコップと関わる。それはコップを既知のコップとして安定させる。だが古川さんの身体は、そのような日常の固定的な関わりでない関わりをする。どんどんと固まったものが壊れていく。そこにあるものが何であるかわからなくなる。意味が終わらされていく。

 

パフォーマンスの後に、砂連尾さんと古川さんのトークがある。砂連尾さんは古川さんたちが歩いた道の近くに以前の自分の家があり、また終着点はお父様の亡くなった病院の近くだったことに後の映像記録から気づかれたとのこと。以前、家族模様替えプロジェクトでお会いしたお父様、亡くなったのかと衝撃を受ける。時間は過ぎている。砂連尾さんは、その時の体験を確か生まれ直しのようだと語っていたように思う。

 

歩くことは、まるで線香の燃えている点がだんだんと下に移動していくようなことだなと感じた。燃えている場所では、そこで出会ったリアリティによって、自分の止まった時間が更新されている。燃えている場所で止まったもの、固まったものが動きだして、そして灰になって消えていく。その燃えている点だけが生きているのかもしれない。記憶である世界は、後は静かに止まったままでいる。歩き移動する分だけ出会うリアリティがあり、線香の火の移動のように小さく更新されていく世界がある。


古川さんが子どもの時に積んだ石が大人になってそこに戻った時に残っていたという話をされる。過去、現在、未来と言葉は時間をそれぞれ別のものとして分けてしまう。だが本当はそれらは同時的にあるのだ。過ぎ去ったはずのものへの遭遇は、その同時性を思い起こさせるから心を動かすのだと思う。


追記:
あとで気づいたが、ここでダンサーの人たちと自分自身の出会いとその経過の記憶をいま一度たどることも「歩くこと」であり、自分と世界の関わりを小さく変えていく更新の作業だった。古川さんの歩録に自分の「歩録」が触発された。

 

そして古川さんが語られていた「持続感」について考えてみたかったのだった。

 

最近は、体の内へと向かう意識だけでなく、体の外にある物事へも興味が増してきました。内と外が共にあるような「運動の持続感」は踊りの要ですが、私がそれをより自然に感じるのは、歩くという素朴な行為のさなかです。                 ーー歩録パンフレットより

 

意識で認識するということは、言葉で認識することだと思う。言葉によって分けられる前は内も外もない一体のはずだ。図と地を分けるように、意味あるものとして認識する際には背景に沈む地が必要だ。また言葉によって区別しているときに、図と地を分ける区別の基準自体は観察できない。

ルーマン(注:システム論者)における観察概念は、「区別と指し示しの操作」というスペンサー=ブラウンに由来するきわめて形式的な定義を出発点としており、その概念としての汎用性は非常に高い。実際何かを観察する際には、その何かを指し示さねばならないし、何かを指し示すためには、それを他のものから区別しなければならない。(略)
 観察におけるこうした区別は、その区別をもって見ることができるものを見ることができるという意味では、世界へ何らかの接近可能性を開くものである一方で、この区別をもって見ることができないものは見ることができないという意味では拘束でもある。したがって、ある観察を遂行している観察者が自らの盲点、すなわち、自らが用いている区別自体を同時に観察することは不可能である。ある観察が何を観察することができないかについては、観察図式の転換(別の視点から観察すること)や、時間の助けを借りて(過去の観察について現時点から観察すること)のみ、観察することができる。それが観察の観察、すなわち二次的観察ということである。 矢原隆行『リフレクティング』

 

僕は人間の根本的な疎外は、言葉によって世界との一体性から切り離され、言葉によって作り出された止まった世界に閉じこめられることだと思う。止まった世界には「持続感」は存在しない。過去と現在と未来が一体になった同時性も存在しない。見えるもの、認識できるものは止まったものだけだ。言葉による認識が立ち上がり、自分というOSが起動する前の本来の状態、動きそのもの、変化そのものの感触が「持続感」として感じられるのではないかと思う。


ミヒャエル・エンデが確かファンタジーに対して科学的・客観的な「現実」としての世界とはなんであるかと科学批判をするときに、子どもが月にたどり着いたとき、そこにあったのは月ではなくただの干からびたサンダルでした的な(だいぶ間違っているかもしれないが。)寓話を書いていた。言葉によって失われた現実として、ファンタジーがあるように思う。

うつらうつらと意識状態が落ちるとき、ファンタジーの世界は現れ、そして意識が戻ったときにはその現実は忘れられ、失われてしまう。そこでの現実は持ち帰ることができないし、現実だったということも許されていない。それを体験したのは自分がおかしかったのだということになる。

 

干からびたサンダルとして自身を認識することが言葉をもったものの宿命なのだ。しかし、全てが同時にあり、何とも切り離されていない状態、意識が失われた状態のときに本来の自身、意味から解放された全体が体験されている。


自意識というOSが立ち上がったとき、意識されるのは既に終わったもの、止まったものだ。だが歩くという繰り返しの動作のなかで反応する機序を飽和させられた自意識は瞬間瞬間に落ちているのかもしれないと思った。意識の支配性のあまりの大きさに絶望してしまうのだが、そこここで意識は抜け落ちていて、「持続感」の名残がどこか感触として感じられる。止まった世界は瞬間瞬間に動いて少しだけ更新されている。そういうことなのかもしれないと思った。