降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

言葉の更新 真の言葉を見つけるやりとり

フレイレは、対話を単に相互変容、相互更新をおこすものとしてだけでなく、「真の言葉」に近づく手段であると考えている。「真の言葉」は世界を変革させる言葉であるという。

 

行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。

 

行動という次元から根こぎにされた言葉は、当然の帰結であるが省察とも無縁なものとなり、聞く者と語る者の双方を疎外する。泡のように虚ろな言葉からは真の現実否定も変革への意思も、ましてそのための行動も期待することはできない。他方、行動だけを強調して省察を犠牲にすると行動のための行動に邁進することになり、真の実践は否定され、対話は不可能になる。 里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

 

 

対話には行動と省察の二つの次元があり、その相互作用、循環によって「真の言葉」が現れてくる。

 

フレイレを読むなかで、その言葉が本質を突いていることになんども驚く。それが本質だと思うのは、語られているそのエッセンスを全くの別の領域にあてはめてみても成りたったり、あるいはそこに新しい視野をひらくからだ。

 

そういうことがおこるのは、フレイレが「真の言葉」を追究していたからだったのかなと思った。

 

ある言葉が表現しているものの本質をつかもうとするとき、どこまでも妥協なくそのエッセンスを抽出していく。そして現れてきた言葉は、思考を導く言葉になる。あれやこれやとぐるぐると考えるより、一つ一つの言葉に含まれる虚偽、誤った方向に導く嘘を取り除いていくほうが実際的に考えが進む。

 

 

人の変容更新がおこりうる場が、あたたかい場、信頼感のある場、尊厳のある場、自由な場などと表現される。そのように表現することはできる。だが、だからあたたかさを追究せねば、自由を追究せねば、となっていくと、場は不必要に緊迫していく。

 

あたたかさだとか、自由だとか、それらの肯定的要素を場につけ加えればいいのだと考えるのは、正しいようで間違った方向に行きやすい。なぜなら肯定的要素とは、否定的要素を打ち消すものとしてあるだけであり、もしそれがいっぱいあったほうがいい、などと強迫的になるなら、それはただちに否定的要素、つまり強迫に反転するからだ。

 

肝要なのは、既に内在している否定性、流れを止め停滞をもたらしている強迫を打ち消すことができるかどうかだ。場をプラスで満たしつくそうとするのではなく、既にあるマイナスを一時的にゼロにするということだ。いつも感じられている強迫が一時的に消えた強迫の真空地帯をつくるということだ。

 

ここでのエッセンス、真の言葉は「打ち消し」だ。そこにいけばあらぬ方向に走り出すことなく、妥当に考え、アプローチすることができる。

人間は黙して語らぬ口なしの存在ではありえない。一方、虚偽の言葉を糧として育つ存在でもありえない。人間の真の言葉、世界を変える言葉に依拠して、みずからを育むのだ。

 

人間として存在するということ、それは言葉で世界を表すということ、そして世界の態様を変えるということだ。言葉化された世界は今度は言語行為の主体に問題を投げ返し、彼にさらなる言表行為の主体に問題を投げ返し、彼のさらなる言表行為を挑発するのだ 里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

 

確かめていく、考えていくということは、より現実を正確にとらえる言葉をさらにさらに見つけていくこと、言葉を更新していくことだと考え、そうしてきた。選んだというよりそのやり方しかできなかっただけであるけれど。それは、個人内でおこる対話だったのだと思った。フレイレが言うところの行動と省察は相反するものなのだ。お互いに他者であり、お互いを問いあう。その問いあい、やりとりをいつまでもさせていく。