降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』読書会報告

パウロフレイレ「被抑圧者の教育学を読む」』読書会、主催含め18人の方にお越しいただきました。

 

山下さんの司会で、それぞれの関心や読んで思ったことなどお話ししてもらいました。枠組みとしては、誰がきてもいいし、読んでこなくてもいいというゆるいもので、思った以上に人が来られたので内容の核心により迫っていくというよりは、内容もさらっと紹介しつつ、主にそれぞれの問題意識、経験を語るというかたちになりました。

 

知っていることの差があったり、他人が使っている言葉の難しさがあるという指摘もありました。差別、抑圧など、わりに普段から周りと考えたり話したりしている人も、そういう環境でない人もそれぞれいたので、ある人の問題意識や言葉や考えは、別の人にとっては理解が難しかったり、そのせいで自分がこの場にそぐわないんじゃないか、という不安や疎外感が出てしまうこともあるようです。

 

もっと内容に迫ってほしいという意見も一方で出ました。フレイレの考え方であれば、こういうことはどうなるのか、というより突っ込んだところなど、それはそれで応答できる人が応答したり、という感じでした。本を読んでない人もいるので、両方の求めに同時に答えることは難しかったですが、それぞれの立場の人がいるということで、受け取ってもらうかたちになりました。

 

ある人にとっては、言いたいことを言おうとしたら別の人には難しく込み入ったことになってしまうのですが、だからといって我慢してだまっていなければならないということだと、それはそれで一方的になってしまいます。その人にとっては、今、場でおこっているトピックややりとりだけなら、わざわざこの本を扱っている意味、自分が読んできた意味がないだろうと感じてしまうわけです。

 

しかし、預金型教育における教える人と教えられる人の権力関係の体験談、学びとは何か、強い人たちの抑圧的な価値観を弱い人たちも内面化してしまうこと、抑圧する人も抑圧しなければいけないほど内面が追い詰められていること、持たない人たちの無力が抑圧する人を解放する力をもっていることなどについては、場のやりとりからよく伝わってきたのではないかなと思います。

 

僕自身は預金型教育に加えて、フレイレの人間化と非人間化についての考え方に深く納得するところがあったので、それも発言しました。

 

人間化・非人間化も言葉の感じは難しそうですが、例えば誰かが働いてないから1人前でないとか言われたりしますが、上に立つ人たちが共有しているあるべき姿に足りてないと、普通の人間より下であるとされ蔑みや別扱いの対象になります。

 

人間とは「まっとうな人間」、「あるべき基準を満たしている人間」のことであり、そうでない人は実際上はまっとうな人間とは見なされないし、そう扱われません。人間とは「認められる」人間のことであって、その時初めて権利が与えられて然るべきだとなります。

 

基準以下の人は「一人前」ではないし、「まっとう」ではないから、自分たちに比べて何かが奪われていて当然、多少ぞんざいに扱って問題なし、もっとちゃんとやれよ、というわけです。しかし、そういう蔑みを受ける人は、まるで岩に縛りつけられるように屈辱や自己卑下、劣等感覚におとしいれられ、より自分らしく生きていく変化の基盤を奪われてしまいます。その人の「時間」が止まってしまうのです。

 

よって、誰かに対して特にその人が逃れられない属性をもってバカにしたり、蔑んだりするようなことは、お互いを人間として扱うことをしていないということであり、その行為自体が非人間的であると言えるでしょう。自分は一人前だがあの人は一人前ではないと言うときも、その発言者は非人間化しています。

 

大昔から人間は奴隷など自分より下の人を作っては、あるいは能力の高さによって、自分は上の人である、いい人間である、人間らしい人間であるとしてきました。しかし、その行為自体がフレイレからすれば非人間化した状態だと言えるのです。

 

フレイレはさらにこう言います。人間とは、人間化に向かう過程にあるものを指すのだと。つまり自分のうちに差別的意識、無自覚に自分や誰かをモノ(利用対象・尊厳を与える必要のないもの)として認識し、評価していたり、価値を奪って扱っている状態を発見し、そこから離れていくことが、人間化であると考えるのです。

 

出会いの哲学者マルティン・ブーバーの考えと並べてみます。人間は既知のものをモノとして、利用対象として認識し、そのように関係しますが、自分を作り変える他者<なんじ>と出会うとき、その自分そのものが刷新されます。

 

フレイレは、その刷新されるという出来事がおこっているときが人間が人間の本質を生きているときであり、いわばブーバーのいう<なんじ>と繰り返し出会い続け、自分の内面の価値観を刷新し続けることをもって人間が人間になっていくと考えているようです。

 

ですので、一度価値観や感じ方が変わったからといってそこを動かず閉じこもれば、もうそれは非人間化に向かっているのです。何を獲得しても、何を達成しても、自分の知らない他者に出会うことに向かわないのなら、人は非人間化していくのです。

 

そして人間化するか、非人間化する選択をするかは、それぞれの人の今ここの選択にかかっており、いわば人間は常により人間化していくチャンスと、非人間化していく危険に同時に直面しているとフレイレは指摘します。

 

この考えかたは厳しいようで、非常に妥当な人間の定義なのではないかと思います。なぜなら先に述べたように、人間はいつも、自分を「〜をもっているから(まっとうな)人間だ」「〜より上だから、〜できるから(まっとうな)人間だ」というふうに、自以外の人やものを下にして自分が人間であることを固定化し、確かなものにしようとするからです。

 

何を所有したとしても、何を達成したにしても、そこに止まるなら非人間化に向かっているということであり、ふんぞり返った偉い人たち、権威たちを批判しつつ、逆にたとえ犯罪を犯した人でも変わっていくプロセスにあるときは人間であるという考えは非常に先進的であり、100年後(もっとかも。)の価値観なのではないかなと思います。

読書会が最終盤になったとき、個人の発言に対する割と強めな批判が出て、そのやりとりを怖いと感じる人がいたり、この会自体のあり方が抑圧であり、排除であるのではないかという激しい問いかけが出て、場は一瞬、荒波にのまれたような状態になりました。

 

ですが、その危機、亀裂に対して、応答する人たちが現れました。今まで比較的発言が少なかった人も自分の感じたことを率直に丁寧に伝えたり、自分はこう思うというふうに思いが返されました。

 

誰かの発言や行動が強く場を飲み込んで硬直したような状態に、静かな、しかし確かな別の見方が現れてきて、場の状態はいわば今までで一番優しいものが流れている状態になったように感じました。

 

あの時、対話がおきていたと思います。

 

割りと毎度毎度「対話」という言葉は同じ議論になるのですが、対話を「する」ものであると捉えると、対話が何かを強制するもの、抑圧するものになってしまいます。

 

対話は、「おこる」ものであって「する」ことはできないと僕は考えています。対話とは、変容のプロセス自体のことであり、さあ対話しなさいなどと誰かに強制しても、自分は対話をしています、なんて押し付けがましいことをいっても、変容のプロセスはむしろこわばって止まってしまいます。

 

相手を尊重しながら、自分にとって本当のことを場に表現する時、その表現は場や人の状態を変容させると思います。その人がその人の震えるところを出すとき、場や人はその震えに打たれます。その人が無防備になっていることが感じられます。それは場やそれぞれの人に対して他の何も代え難い信頼を表しているのです。

 

信頼とは保証ではありません。傷つけられないから、大丈夫だから話すというのは、つまるところは、かけひきなのだと思います。震えるところを場に表現する人は、傷つく可能性を知りながら、駆け引きを捨てて、相手がどうするかに関係なく、自分を先に与え、ゆだねているのです。

 

自分の防衛を捨てたそのあり方は相手を変えます。その表現を聞くものは、強く信頼されているという感覚をもちます。自分がどう反応するか関係なく、信頼されている。その相手の勇気は、自分がどれだけ怯えていたか、小さかったかということを目撃させる鏡でもあります。

 

さて、里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』は、要望があれば、色んなところでやりたいと思っています。自分個人としてもまだまだここに書かれていることから得られることがあると思っています。どうぞお知らせください。まだ日程未定ですが、大阪でもう1回やる予定です。