降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

マイクロアグレッションという陵辱

無自覚な差別意識の吐露についての話になる。本人は自分が差別意識を持っているとは思っていないが、受けたほうは屈辱の経験として記憶される。丸一俊介さんは、マイクロアグレッションとは「日常的な侮蔑や見下し」ととらえている。そしてその侮蔑や見下しをしていることを言った本人は気づきもしていないことが多い。

 

gendai.ismedia.jp


差別の問題、また日常的な侮蔑や見下しの問題が、マナー意識とか、意識高い系みたいな受け取られ方があるので、そもそもの話からはじめたい。差別、侮蔑や見下しは、人間を価値ある人間や認められる「人間」とそうでない「人間以前」にするものであるということ。


「人間以前」とは大げさな言い方のように聞こえるかもしれないが、「一人前に対する半人前」とか、未だ社会に根強い「(価値ある)男に対する(価値のない)女」「美しい人と美しくない人」のような、世間において頻繁に使われる言い方にあるものだ。だが頻繁に使われることに何の正当性も根拠もない。もし社会環境がより文化的になったならば、横行するこれらの見下しや侮蔑は、劣悪で非文化的な環境の所産とみなされるだろうと思う。

 

これらの言葉によって実際に「下」にされる人たちにとっては、「人間以前」はその人に屈辱としてずっと残り続ける妥当な言葉であると僕は考える。差別や侮蔑、見下しは人を「人間」と「人間以前」することである。そしてこの行為はその人の実存に深く傷をいれる「陵辱」であると思う。

 

陵辱は陵辱であり、そこにマナーも意識も高さもない。無自覚無理解であっても人を陵辱したことを人として知ったなら、これは世間では普通のやりとりだとか、細かすぎだとか、言い訳で逃げることはできないことだろう。(だが現実にはこうして逃げる人が多い。)

 

丸一さんの記事では、日常的な侮蔑や見下しを受けた人の記憶力や集中力は、露骨な差別を受けたときよりも下がったという実験結果が紹介されている。言っている本人さえも無自覚な日常的な侮蔑や見下しは、明確に否定できる差別よりもむしろ悪質な面をもっている。記事では「日常的にマイクロアグレッションにさらされることで、マイノリティは本来の力が発揮できず、より不安でパワーレスな状態に置かれてしまう」と指摘している。

 

日常的な侮蔑や見下しは、それを受けた人の可能性を奪う。何の気になしにその人の可能性を奪ってしまったから自分は悪くないと自分を正当化することは道理にはかなわない。悪気なくあなたを陵辱してしまったのであるから自分には問題があるわけではないということは成り立たない。やったことと無自覚さは何の免責にも関係ない。

 

以上、差別や往往にして無自覚な日常的な見下しや侮蔑が一部の意識高い系の話し(また意識高い系に「差別」されている自分が可哀想、意識高い系による我々に対する「差別」には断固反対する!というよくある屁理屈は蹂躙を先にした自分をまるで問わない厚顔。)ではなく人を「人間」と「人間以前」に分ける行為でありそれは人間の実存に対する陵辱であること、無自覚さはやったことの大きさを軽減するものではないことを確認した。

 

また、人を「人間」と「人間以前」に分けるということは感覚の話ではない。それは筋の話であるのだけれど、それも理解されていないようだ。「あの人は気にするから(文句いうから)ここでは言わんと別のところで言おう」としても、別の場所で人を「人間」と「人間以前」に分ける物言いを他人がいるところでしているのなら、その人は自身の差別行動や他者の実存への蹂躙をやっていいと思っている。

 

その見下しや侮蔑は周りに伝わり、聞いた人を蹂躙している。社会環境を悪化させているといえる。

 

知ったことか、自分は言いたいことを言うと思うかもしれない。それを止めることはできない。何度抗議しても変わらない人はいる。だからデメリットというところでも提示したいと思う。

 

自分の発言に内在化している見下しや侮蔑、差別に対して、人に伝わる場所で話すのをやめないという場合、もちろんその人はその言動によって「人間以前」にされる人からは信用されず、忌避される。もちろんそれだけでは終わらない。

 

その人の言動が自分の友人や知り合いを傷つけうると判断する人たちからも信用されない。その人と関わりがあっても、自分や自分の友人を守るために致し方なく関係は距離を確保したものになるし、その人を重要な場面に介入させることも、誰かに紹介したりすることも控えられる。もしかしたらその人と友人である、知り合いであるということで自分も同じ価値観を持っている(またはそれを許容している)と疑われるのではないかとさえ思うだろう。


その人は自分の好き勝手なことを言って誰かを蹂躙しているが、それに無自覚な人が周りに残る。そうするとますますその人は他の感覚を持つ人からは忌避されるだろう。忌避は、積極的な攻撃ではなく、その人から自分や自分の周りを守るための致し方ない防衛だ。何を考え、何をいう事も止められないけれど、人はその人が行なっている尊重の水準に応じてその人を信頼する。都合のいい関係を求めるなら、相手からも都合のいい関係をもたれる。