降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

耐えきれない痛みという救い

手近なものを集めて、自分の安定を作って固まってしまう人間の自動的な自己疎外について話していました。

 

裸のミノムシの周りに綺麗な毛糸の細切れをおいておけば、ミノムシはその毛糸を使ってミノを作り、カラフルになります。ミノムシにとって、重要なのはとりあえず身を隠すミノをつくることであり、ちょっと変な人工のものであっても周りにそれしかなければそれでミノを作ります。

 

手近なものとは、たとえば「普通」と認識される範囲におさまるように振る舞うことや、「人の迷惑をかけない」という道徳であったり、何かが「できる」という自分の能力であったりするのだと思います。

 

それらによって、人間は自分でも気づかず、自動的にミノを作ってしまうと思います。自分の底にある根源的な痛みを感じなくするためです。底からの痛みは、耐えることが難しいものです。なので、まずミノが作られていきます。

 

ミノは自分の痛みを感じさせなくするもの、忘れさせるものなのですが、それは同時に他人の痛みに無自覚になることを伴います。よって無自覚に、悪気なく人を傷つけてしまうような、自覚のない鈍い状態、暴走状態が現れます。マイノリティにとって、マジョリティがなぜこのように厚顔で人を踏みにじることに鈍感なのかと感じられる理由はここにあると思います。

 

「普通」や「できる」ことに隠れられて、痛みを感じていない状態とは、ミノで自分を覆い尽くしてしまった疎外状態なのであって、逆に弱い人、傷つけられた人、「適応」できない人のほうは、他人と自分の痛みを感じられる人間として回復していく可能性に開かれた人だということです。

 

生きているなかで、他者によってそのミノが傷つけられる時、忘れていた痛みと混乱は再燃します。何かができたり、今まで達成できていた「あるべき姿」を維持することが成り立たなくなると、人は何かになれたり、何かをできたりするから自分には価値があるという条件つきの自分の維持から、その条件を手放しても自分を受け入れられる体制へと移行しなければならない切実さにさらされます。

 

それは生をかけた試練です。傷つけられることによって耐えられない痛みを取り戻し、可能性に開かれた人も、残念ながらその可能性を実現する保証は何ももらえません。今までのやり方が通じない暗中模索のなかで必要なものを見出すことによって、ようやく回復し生き延びることが可能になります。

 

耐えきれない痛みは自分を死の方向に近づけるものですが、同時にその耐えきれない痛みによってしか、人は自分の能力をこえる困難に向き合う力を持てず、自分と他人の奥底の痛みを感じる人間として回復していくことができないように思えます。