自分が持っている「価値観」は自分のものだろうか。理性的な判断と吟味のうえでできあがった妥当なものであり、正当なものであるだろうか。
パウロ・フレイレは現社会において支配的な人たちの価値観を人々が内面化すると指摘している。強い者への憧れがあり、一旦「有名」になり、既存の支配的で抑圧的な価値観から発言する人はマスコミに支持され、差別言動をしても風見鶏のようにくるくると発言を変えていてもなお支持され、事あるごとに意見が参照される。
「強い」ものへの憧れ、「美しい」ものへの憧れといったかたちで、人は今の自分を否定し、よりその価値を体現したところに行きたいと思う。だがそのような「強さ」や「美しさ」とは誰かと比較したうえでできるものであり、人を価値ある「人間」と価値が劣る「人間以前」にすることによってできあがる。
自分は純粋に心から憧れているからその価値をもつことがいいと本人は思うのだが、実態としてそこにはまず自分自身が憧れる価値観に対して十分でないというみじめな自己否定がある。強烈な感覚を得るために憧れの対象に同一化しようとしてしまうが、むしろそこでみるべきは、相手の素晴らしさであるよりも、相手の素晴らしさに刺激される今の自分のみじめさであり自己否定であるだろう。
比較とは競争であり終わりがない。『白雪姫』の王女のように毎日鏡に問い続け、自分の美しさを確認することは実態としては価値の牢獄にいれられる拷問のようなものだ。より乾いた喉に水が美味しく感じられるように、憧れの対象にちかづく時の強烈な快感は、それまでその価値観を取り入れてしまったことによって否定された分の快感なのだ。なんのことはない。
より素晴らしい価値観と自分との同一化が幸せのように思われるけれども、実のところは「強い/強くない」「美しい/美しくない」という内面化された価値の基準から解放され、その基準によって自動的に自己規定されてしまうことから解放されればいい。ある価値観に自己診断されていたところから、単に影響されなくなればいい。気持ちの通りがよくなる。
こう書いてしまえば構造は単純であるけれども、自分を含めて人を「人間」と「人間以前」にする価値観から自分が解放されるのには長い時間が必要になると思う。そうすると、社会での生活においては、内面化された差別意識がありながらも、それを可能な限り、人を傷つける場でださないということができることであり、まずはそのことこそが重要なことであると思う。
さしあたってはそれが文化的な環境においては最低限のあり方であるだろう。内面までは問わない。内面の素晴らしさが世間では価値とされているかもしれないけれど、重要なことは自分の内面がどうかこうかにかかわらず、まず加害や侵害をしないことだろう。内面の良さを問題にしたいのならば、差別的な価値観がのっている言動の加害や侵害をやめてからのことだろう。それは他者を尊重するということでもある。
尊重ということは、自分の価値基準に相手を組み込まないということであり、相手には相手の価値基準があり、自分の思いとは別個の存在であることを認め侵害しないことだろう。尊重とは自分の内面にある相手に対する尊敬などではなく、実際の言動のけじめのことだ。
たとえ内面的にどれだけ差別的価値観に侵されていても、たとえば自分の出世のためなどとなればそうでないように一時的に振舞うことはできるだろう。他者と接触しないとき、決して伝わらないときにまで内面からくる行動をやめよとは言っていない。人に対して実際に加害行為、侵害行為となる場でのあなたの振る舞いをやめよということしか求めていない。
マイノリティが本当にマジョリティに対して「理解」してもらいたいと思っていると思うなら、それは自分が相手にとって重要であるということをいまだに信じ続けているということだと思うけれど、その肥大化したナルシシズムはどこからくるのだろう。
マイノリティである自分を「人間以前」と眼差したり、「人間」より軽く扱ったりみなしたりするような人を重要だとかこの人に「理解」してもらいたいと思っていたりするわけがないだろう。全ては最低限社会的な場においての侵害や加害をやめてからのはなしだ。もし自分に痴漢をやめない人がいたら、痴漢と自分との間に人間的な関係がいかばかりでもあると思うだろうか。
尊重とは文化だといえるだろう。内面でどういう差別的価値観をもっていても、一時的にはそれから距離をもち、お互いの差別意識によって相手を加害せず、相手の時間を止めないということだ。自分の内面的な心理がどうかなどにこだわるあなたのナルシシズムはどうでもよく、それに付き合うつもりもはじめからなくて、実際に差別意識の影響が他者に伝わる場でだけ最低限やめてほしいと求めている。
誰もが差別意識をもっている。それにもかかわらず、その影響から抜け、さらには「人間」と「人間以前」にわける内面化された基準からいつか解放されようとしている、と仮定することが人間的で文化的なことではないだろうか。そうでないと人はいつまでも内面化された価値基準によって、他者と比較した自分をよりたかめようとする疎外の亡者をやめられないのだから。
人を「人間」と「人間以前」にわける差別意識を内面に持っていること自体を問題とみなすことを「心理主義」とか「内面主義」とするなら、「心理主義」や「内面主義」を第一のこととするのは問題がある。なぜなら内面に自分の価値があるので、差別意識をもっていること自体を認められず否定してしまい、さらに問題が陰湿化するからだ。
「心理主義」や「内面主義」の問題は、実際には自分が社会的に「悪い」意識をもっていること自体を見ないようにしてしまう。また「理解」することとか「愛する」ことなど、情動を伴う感覚を本質的なものとしてしまう危険がある。それらは「自然」な人間の素晴らしさのように思われるかもしれないが、体質的なものにも内面化された価値観によっても形成されるのであてにはならない。
自分の内面のいかんを自分の価値とする「心理主義」や「内面主義」ではなく、尊重という文化的なけじめによって人が扱われる社会環境に移行することが重要であるだろう。「好き/嫌い」「理解できる/理解できない」というような自分の延長として他人を理解するあり方には歪みが大きすぎるし勝手すぎる。
まずは自分の延長ではない別の存在としての他人を尊重することができるようになったときにはじめてその社会環境は文化的になったといえるのではないだろうか。