降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「負」を受けいれるために 「内面」の問題化から構造の問題化へ

心はなかなかに負を受け入れられない。負を内面において受け入れることは、社会的に謝罪することだったり、罰を引き受けること、公的な場において自分の振る舞いを統制することとはまた別のことだ。根本的な問題の改善には社会的な「責任」の全うと内面における受け入れの両方が必要だろう。


物語のなかで悪いことをするのは狼や狐のようなものだったりする。が、物語で書かれていることは人間のことであるので、それが狼だろうが狐だろうが非生物であろうが関係なく、人間のリアリティについて書かれている。

 

物語は人間のリアリティを人間の心が受け入られる次元にして経験させ、自身への受け入れを可能にする媒体でもある。そこで受け入れがたいリアリティは非人間が代わりにやることになる。

 

赤ずきんのおばあさんを食べる狼は人間なのだ。だがおばあさんを食べる人間などを心は自分として受け入れることができない。それは自分ではないと否定してしまう。だがその否定は、自分から否定的な経験を乖離させたまま維持することにつながっている。

 

自分から否定的に思われたリアリティを乖離させる代償は実は大きい。そのリアリティに関わることは意識できなくなり、結果として、何かの契機にそのリアリティを自分自身が再現してしまう。

 

「問題」は未解決なままで維持保存されていて、意識的には無感覚になっているが、精神はその維持負担を吐き出し、動かそうとしているように思われる。それは否定的なリアリティを自身のものとして受け入れようとする自動的な「回復」への動きともいえるが、これは自覚や統制のきかないものとなり、犯罪や暴力、ハラスメント行為になりうる。

 

負とは醜さでもある。自分の負を受け入れる人は美しいと思われるかもしれないが、単純にそれが個人の思い切りとか努力とか勇気とか潔さみたいなものでできるとは思えない。ある醜さを受け入れるためには、その醜さをも包みこむ肯定性(実際には否定性の打ち消しということになるだろう。否定性を受け入れず肯定性で目隠ししようとすることは結果として差別的価値観の獲得にもつながるだろうから。)が必要になってくる。自分の価値がその醜さによって失われない限りにおいて、その人は自分の負を、つまり醜さを受け入れるだろうと思う。

 

その前提を抜きに、ただその人の行為に対して醜さを受け入れよということは、単にその人の心の壁を厚くさせ、結果的に古い自分の維持を強めてしまう。北風が旅人の服を剥ぎ取れなかったように。

 

繰り返すがこれは内面の話であり、間違いをした人は被害者に対して社会存在としての「責任」を果たす必要がある。ただ対外的にその「責任」をはたしたとしても、内面の変化が伴わなければ加害者は自分のほうが被害者だといつまでも思い続けるわけだ。
いくつかの場を通して、差別や明確な差別には至らなくても人を辱めるマイクロアグレッションを内面の問題に帰することが、大きな反発と抵抗、自動的な話題の逸らし、焦点ずらしなどを派生させるように思われた。

 

(意図的にそういうことをやる人はいるわけだが、本人はそのつもりでなくても、自動的にそういうことがおこっているとみるほうがおそらくこの問題における場の停滞状況を抜けていくにあたって、実際的な設定やアプローチを考えることに寄与するだろう。)

 

人は自分の醜さを受け入れることが難しい。差別的価値観を内面の問題とすると差別価値観と醜さは直結する。これによって余計に強固に、かつ自動的に自分を守ってしまう。差別的価値観を環境から減じていきたいのに、それを取り扱おうとするとかえって強固な反発や無感覚の壁が作られてしまうジレンマがある。

 

万人向けではないが(そもそも万人向けするものなどそれ自体欺瞞に取り込まれており、現状を改善ではなく維持補完するものだろうけれど。)このジレンマを抜けていこうとするとき、菊地夏野さんと酒井隆史さんの対談は大きなヒントになった。

note.com

 

この対談においては、資本主義がエッセンシャルワーク(医療、介護、教育などたとえコロナ禍においても止めることができない「社会的再生産」を担う仕事。一方金儲けのための、なくてもいい仕事はブルシット・ジョブと呼ばれる。)を犠牲にし、搾取することで成り立っていると喝破されている。

 

そしてこの本質に向き合わない限り、破綻に向かう社会を止めることができず、現存する差別に向きあっていくこともできないとされる。たとえば男女差別の解放が政府があげた「女性の活躍」に歪められるように。

 

(「女性の活躍」は実際には現存の社会構造の不均衡(女性やマイノリティがエッセンシャルワークを無償や低賃金で担う。)の改善に向かうものではなく、エッセンシャルワークに加えて金儲けもできる超人としての「女性」イメージをあげて、エッセンシャルワークをこれまでと同様に「女性」やマイノリティに負担させようとする目くらましでしかない。)

 

おいしい思いができる「金儲け」はエッセンシャルワークを誰かに過度に負担させることによって成り立っている。資本主義自体が差別を前提にし、差別を求めているといえるだろう。

 

それであれば、差別を個人の内面の道徳やモラルの問題にするのではなく、資本主義をささえるために構造化された規範、搾取する人と搾取される人を固定化する階級形成のための規範ととらえることができるのではないかと思う。

 

そしてそこにおいては、マイノリティとそれを抑圧する無自覚で特権的なマジョリティという人的な対立、個人の内面における対立ではなく、搾取のための階級形成を規範を構造の問題として共に明らかにしていくという共通の方向性が見出されるのではないかと思えた。

 

共に搾取のための構造に組み込まれ、規範を内面化させられた疎外者として、環境と自身を回復させていくという共通の方向性をもつ。このことによって差別的価値観と自身の醜さとが直結させることを避けながら、共に構造の不均衡を知っていき、実際的には差別的価値観を減じていくということがすすめられるのではないか。

 

まずは関心ある有志と実験的なスモールグループ(ワーキンググループ)で試行していきたいと思う。