降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

尊重は相手のためか 学びの疎外と文化の不在

読書会や話の場で思うこと。

 

人権や尊重という言葉はあっても中身は空洞化されている。人権とは何か、尊重とは何かはなんとなくのニュアンス以上に知る必要もないと認識されているに等しいだろう。かたちだけの言葉はむしろ実態を後退させ、現状を変えないものとして機能する。

 

読書会でフリースクールについての発表がある。学校とは何かをあらためて根本的なところから問うやりとりになった。

 

学校を終えれば学ぶことは終了するのか。学びとは学校ですることなのか。どれだけよりよい学校に通うかでその後の生の豊かさ、社会的地位や成功が決まるのか。学校とはそのための場所なのか。学校はそこを出た後に「学ばないこと」を正当化する理由にすらなっている。

 

思うに学校の一番の弊害は「学び」を強制されるもの、堪えるものとして認識させ、ほとほと嫌にさせるものとしてあるのではないかと思う。余暇に出世や趣味と関係ないところで「勉強」などするものかという認識をつくって学びを疎外する。

 

本来的に学びの動機は、既知に閉じこめられ疎外される存在である人間がその閉塞に自ら亀裂をいれ、メリーゴーランドの馬に縛り付けられたように同じ風景がいつまでも繰り返される倦みの苦しみを更新したいという、生き続けるうえで根源的にもつものであるだろう。

 

また学びとは応答的なものであって、その人のなかで動こうとしているものが先にあるところで生まれるものだ。その人に何の求めも生まれていないところで既に内容の決まったことが一方的に詰め込まれるのなら、それはそもそも学びとは別のものであり、逆のものでもあるだろう。

 

学びが何であるかを知ることができるのは、強制性から自由になった学校外の場所になっている。自分のなかに一度条件づけられてしまった拒絶反応や自分に対する強制性を落としていく過程を経てようやく始まりの地点に戻れる。

 

鶴見俊輔ヘレン・ケラーとの出会いにおいて、ヘレン・ケラーが「自分は学ぶために多くのことをunlearnしなければならなかった」と話したことを紹介している。鶴見はunlearnを「学びほぐし」とした。

 

一度身につけられてしまった条件づけを落としていくことこそむしろ学びの本質的な要素であって、unlearn(学びほぐし)こそ学びであるだろう。学びとは過去の解体なのであって、ハードディスクにアプリをあれやこれやとたくさんいれて「充実」させていくようなことではない。

 

形骸化したものをあてがわれ、閉じこめられた自分の既知の世界の見え方を変えられない人は、ただ自分だけが疎外されるのではなく、周りの人に対しても自分と同じ価値観をもつことを強制するだろうし、社会を更新していく主体になるのではなく、既にある現秩序の同じ権威に従うことを求めるだろう。

 

現状「普通」で「強い」ものが正しいということを吟味する思考抜きに鵜呑みにして、それに異を唱える人、変えようとする人が「迷惑をかける人」として抑圧される社会環境が世間ということになるだろう。

 

学びは一般のイメージとは違い、更新を求める生命の本質的な動機であるだろう。止まった水が腐るように更新を止めて生きているものとはゾンビだ。ジブリアニメに「飛ばない豚はただの豚だ。」というセリフがあったけれど、学びに関していえば「更新されないゾンビはただのゾンビだ」となりそうだ。

 

SNS上で男性が作った秩序に物申す女性は苛烈なバッシングに晒されることが多い。1945年に女性に選挙権が得られて75年がたった現在でも女性が男性の作っている秩序や価値観に物申すことを許さない社会環境が残っている。女性が男をさしおいて「でかい顔」をすること、つまり対等に意見する存在であることや、思考する主体であるところの男をさしおいて、「生意気」にも思考する主体になることが許せないのが現社会だ。

 

人をして敬意が払われ正当に扱われる「人間」とその必要がない「人間以前」に分ける思考や価値観は、男性と女性における序列化に限らず、ありとあらゆることに複合的にかつ重複累積的に存在しており、社会環境を文化以前の荒野にとどめている。

 

このような現状があるうえで、いい学校を作れば状況がよくなるとか、そこでいいプログラムを作ったり発見したら状況がよくなるということはないだろう。そもそも学校こそが学ぶ場所だと見なされること自体が人間に対する否定であり、侮辱であるのではないだろうか。それは学校を出ても当たり前のように学びという更新が続けられる必要があるということでもある。

 

学びは個々に取り戻される必要がある。それは個人の更新であり、関係の更新であり、状況の更新であり、社会の更新であるだろう。誰かにお任せして自分の思考は更新されないまま、「社会がよくなる」だろうか。

 

学びの本来的な意味と実態が取り戻されたところでは、学びという更新がおこりうる文化的環境、人が「人間」と「人間以前」に分けられない環境の重要性が明確になるだろう。差別や自分の既知の外にある他者に対する尊重のなさとは、文化以前の荒野の環境なのだということが理解されるだろうと思う。

 

人権を守るとは人が「人間」と「人間以前」として分けて扱われることを拒絶することであり、それは文化の基礎だ。それが実態として守られないところは誰かが陵辱されているのにそれを皆で気づかないようにしている、文化の無法地帯だ。文化とは存在へのやさしさであるのだから。

 

尊重とは既知の世界に閉じ込められ、放っておくと自らの自己中心性から自他を疎外してしまう存在である人間が、自分一人では乗り越えていけないその疎外を関係性のなかで教えられるためにある。尊重は自分の矮小な価値観にしがみつく差別意識を解体していくために自分の知らない他者に向き合う覚悟であり、自分が人間として維持されるためのものであるという認識が必要であるだろう。相手に優しくしてあげるためなどという傲慢さ自体が人を「人間」と「人間以前」に分けている意識そのものだといえる。

 

尊重が、ひいては自分が人間であることの維持にあるのであるのであれば、自分の知っていることや自分の価値の外から差別意識を指摘された時に、「自分はそういうつもりで言っていないから」とか、「差別のこと詳しくないから」や「ジェンダーのことは勉強していないから」と向き合いの拒絶をすることは、「自分は(文化的存在としての)人間であることはやめますから」と言っているに等しい。

 

学校ではああいうことを考えたことがあったねとか、あの本を読んだからこのことはもうわかったとか、学びを過去のことにするのではなく、人間とは何か、社会とは何か、文化とは何かを実生活に隠されている実際の矛盾や抑圧を通して問い続けていく必要がある。問い続けることをやめたときに、更新は止まり、何十年でも同じままの思考や価値観が自分を疎外し、周りを疎外していくだろう。学びということを本来自分は求めていたのだと知ることもできないままに。