降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

認識の変遷 「場づくり」から「結果的な接点づくり」へ 

大学時代、四国八十八ケ所めぐりをやってみて思ったことは、人は適切な環境とそれを生かす媒体(まるごとの存在が保証されながら同時に固まってしまった自分が揺り動かされる状況が併存するような。)があれば、そこで自律的に変化や回復をしていくということだった。


それまでは心の構造をより知れば自分の理解が深まるという認識だったのが、場の状態とそれによる自分の状態の変化を感じとるような感覚がもどっていけば、既知の知識で自分をコントロールしようとするよりもずっと自然に滞りを打破して変化できるようだという認識になった。

 

以後、「技法」みたいなものよりも、場とは何か、変化がおこりうるような場はどのように生まれるか、ということを考えはじめた。

 

いかに直接に意思で働きかけず(直接だと自分にも他人にも抵抗と反動が生まれる。)、強迫的になってしまうような目的を設定せず、逆に世間では当たり前のように価値として提示される強迫の影響が一時的に気にならなくなるような、打ち消されるような、意識が普段向きがちな焦点をいい意味で奪う「建前の目標」のようなものを設定するか。強迫的なものが打ち消されたとき、自律的なものが動きはじめる。回復が回復しはじめる。

 

そういうことを考えてきたけれど、今年から、自分が関わっている畑のオープン日をもうけてみて、ぽつぽつと人が来るようになって、また見えかたが変わった。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

どうしても自前で構成した場をあつらえなければならない、ということはない。世界は本来多様であって、それが様々な社会的制約によってコンクリートで三面張りした河川のように画一化されて、多様な個々人がその変化に必要な体験をする環境が奪われているけれども、それでも個々人はやりとりのなかで、一時的に発生するような場において、間隙を縫って自分に必要な体験をしようとしていて、自分の「時間」を動かそうとしている。

 

前にお世話になった西海岸というコミュニティでは、町家の1階が24時間解放されており、様々な人が交流していた。面白かったのは、茶の間でおとなしい人、発言しない人たちが、食事会の時の皿洗いなどをするというかたちで、茶の間とはまた質の違うやりとりをしていることに気づいたことだった。

 

みんなを同じ場にポンとだしてそれぞれに必要なやりとりがおこるわけではない。それぞれの人に必要な環境のグラデーションがあり、そのようなグラデーションにおいて自分はどこにジャストフィットするのかはその人自身さえも言語化したり認識するのは難しい。しかし必要なグラデーションが先に存在すれば、その人は感じとり、自分をそこに置くことができる。

 

変化は自律的なものの自律的な変化であり、それを邪魔しているものがあるので、その邪魔をとるというふうに考えるのがいいと思っている。対象を「変えよう」とするのではなく。

 

個々人には自分で場を感じとる力があるので、自前で場を用意して待つのでなくても、自分の既知の外の世界に関わっていく何がしかの活動をしていくなかで、そのような「誰かにとって一時的にその人の時間が動く」場は派生的に次々に生まれているはずだ。

 

ある環境にどのような文脈が横たわり、交差しているのかは、釣りをするときにそこに魚がいそうかどうかのような、あたりをつける感覚や試行錯誤は必要になってくるけれど、自分個人がやることは「場づくり」というより、「結果としての接点づくり」でいいように思うようになった。世界は本来的には多様であり、人も自律的に必要な場所に自分を置くことができるのだから。

 

「結果としての接点づくり」はねらってないところにおきる。なので、自分にとって必要な体験をするための活動(自分がそれをやっていることで、自分に必要な体験が結果として提供されるような活動)はそれとして必要だ。

 

ただそこに全ての重心をかけるのではなく(かけるとうまくいかないときバランスを崩してしまうし、余計なアイデンディティになってしまう。)、派生的に生まれるものの面白さを楽しみ、派生的に生まれてきたものによって自分が更新されながらやっていくという感じがほどよいのかと思う。