降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

時間を止める 自意識を後ろにひかせる

なやカフェの畑とカリーへ。
最近は、落ち着けるかどうかが足が向く動機に結構なっている気がする。

 

なやカフェは時間が止まっている感じがする。カウンターの前にヒモで吊ってあるきれいに枯れた植物。下に着いていたら水分を含んでカビるし、雨がかかるところにあっても腐っていく。多くの場合でそうなるはずだけれど、その変化が時間の流れだとしたら、変化がほとんど見えない状態で置かれると時間が止まっていると錯覚される。

 

何かに没頭する時、時間が忘れられる。時間がなくなる。時間は言葉が作り出す強迫なのだろう。時間がなくなるとき、自意識の支配も遠くにひいている。自意識や時間が後ろにひく状態になると、止まっていたものが生きて動き出す。おもちゃのチャチャチャでおもちゃが動き出すのは夜。自意識が機能を停止している時間だ。

 

起きていてかつ自意識の支配がフルに働いているとき、精神は緊張でこわばっている。深く落ち着いたり、遊ぶ時のように、自意識が後ろにひくとき、精神は解放され、変化に対して開かれるようだ。自意識はいわば厳戒態勢を敷いているようなもので、精神は変化への自律的な動きを止められている。自意識が前面に出るような状況はある種危機状態と認識された状況なのだと思う。自意識は動かす役割ではなくむしろ強制停止する役割、止める役割としてあるように思う。

 

言葉は自意識や過去や未来を生む。明日というのはなんだろうかと考えてみたとき、死だったり、空腹のような必然的な苦しみ、避けようもないものへの不安であるのではないかと思う。未来が明るいよりも時間を忘れるほうが多分精神にとっては喜ばしいのではないだろうか。未来に希望が必要なのは、未来を想定したとき、必然的にそこに内在する死や避けられない苦しみの到来を希望という高揚によって打ち消すためではないかと思う。

 

吊られて時間が止まったように錯覚させる植物は、未来に向かう時間の流れを打ち消している。自意識をもつ以上、未来の強迫に絶えず晒されるのだが、その時間が止まっているように錯覚される時、精神に休息が訪れる。

 

自意識が後ろにひいているとき、体に内在する可能性は自律的に動き出す。だから体にとっては、自意識が時間を止めているようなものだ。自意識は現在の体制を保守しようと働いている。だが現在の体制の保守は、トラウマのような、早く変化していって欲しいものまでとどめるように思う。

 

自意識にとって時間が止まっていると錯覚される空間は、安全な場であるため自意識は後ろにひく。すると内在する世界観には逆に時間が流れ、変化の流れが入り込んでくる開けた状態になる。

 

何かの対象を操作することは自意識によって行われる。だが自意識が前面に出てくると精神は縛られて緊張を高める。遅いから早く寝なければいけないと思えば思うほど、緊張し寝られなくなるように。自意識で直接精神を操作することはうまくいかない。それは本末転倒の状況を導く。

 

そこで利用できるのが打ち消しの状況を作るという間接的な操作だ。自意識が危機を感じず、後ろにひくような状況をつくる。時間が止まったように錯覚されるようなものを置いたり、ある程度暗くしたりする。音楽をかける。食べ物を食べる。打ち消しの工夫によって、自意識の支配、自分の体制が変わりたいのに変わらないという状態を移行させ、そこから逸脱していく可能性が開ける。