降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

9/18南区DIY研究室 卒論ゼミのような形態の提案 民間学としての当事者研究

火曜日の読書会で、これからの読書会のかたちを提案しようと思う。

DIY読書会初参加の方はcasaludens@gmail.com へご連絡をお願いいたします。


<テーマ探究型発表の提案>


→卒論ゼミのように、自分の持っているテーマ、探究していきたいテーマをもって、読書する感じで発表していくスタイルを提案します。また知識や知見の蓄積だけにおさまるのではなく、実践するなかで、それらの知識や知見が問われること、新しいものが発見されるということを含めてワンサイクルではないかと思われます。

 

 PDCA(計画・実行・評価・改善)サイクルは、もともと製造業で用いられてたものがそれ以外の領域についても使われるようになったものとのことですが、細かな改善点に意識が集中し、ダメ出しのようになったり、大局観を失うといった弊害が指摘されています。ここでは、企業として安定的に利益をあげることや製造業の場合なら既にある設備や業務形態などは前提にされていると思います。おそらく問題は、その前提が問われないままの細部の最適化がなされるといったものだと思います。
 

 一方、学びというものは、むしろ今まで意識下に沈んでいた前提こそ、変わることが求められるものではないかと思います。学びのサイクルは、螺旋運動のように垂直方向にポジションがずれていって、続けていくともう同じところにはいないといったイメージがあります。それまでもっていた前提を変えていく学び、得た知見が日常や実践によって再吟味され棄却・更新されていくことはまさにDIY的であるとも思います。

 パンク・カルチャーのDIY思想はシステムのなかにはめ込まれている自分たちをそこから逸脱させ、他人のものとなった世界を自分たちのほうに引き寄せ、とりもどすことを意図していたと思います。社会にある規範・抑圧は外にあるだけでなく、個々人に内在化されています。その状態から出て、自由な存在に戻っていくための媒体がDIYなのではないかと思っています。

 

<自分自身のテーマについて>
人の変化、回復というものは何か。そしてそれはどのように遂行されうるのかということを考えてきました。得た知識や知見はそのまま自分に利用し、また自分を実験の被験者にしてきました。
 
今まで小さなグループをつくって対話をしたりということをしてきましたが、現在、小さなグループの周りの社会環境を変えていくことで、人の変化や回復のプロセスがより自律的に動きだす基盤が生まれると考えるようになっています。望ましい社会環境とは、それぞれのコミュニティの間にやりとりが生まれ、個々のコミュニティが自律しながら同時に全体としてメタ・コミュニティとしてあるような社会環境ではないかと思います。

 

そのようなメタ・コミュニティにおいては、顔をもった個人と個人の実質の関係性が基調とされながら、その自然な延長として、友人と友人同士との関わりとしての公共が生まれるのではないかと思います。それは、国のようなシステムのなかにあったとしても、同時に自律しており、自分たちの秩序を持ち得ると思います。

 

パイロット・スタディ(研究の初期段階で,研究計画が適切かどうかを確かめたり,修正の必要がないかを調べるために行なう,小人数の被験者を対象とした研究)的に、いくつかのコミュニティ(学びの場)を少人数でめぐり対話する学びの場めぐりをやってみています。学びの場は、もともとより多様な人が集うことが前提とされた場であり、個々人が個々人として尊重されやすい場です。また来年に複数の学びの場の「カリキュラム」をA3一枚のフライヤーに載せる「みなの学びの場」構想もすすめています。加えて今年11月より「防災にも生きるDIY」として、畑をはじめ、それを防災食堂という学びの場を兼ねた場所で提供する構想をすすめています。


これらの活動は大変小さな活動ですが、これは観光家の陸奥賢さんが提唱するような「コモンズ・デザイン」として、同じような活動を個々が勝手にやっていくことをうながすことを意図しています。自分たち自身が巨大組織になるのではなく、自分たちは自分たちでそれぞれにほどよい自律環境をつくるということ、それに並行して、個々のコミュニティ間に循環を必然的におこす第三の仕組みをつくり導入するということができればいいと考えています。

 

さて、以上のような実践を想定しながら、その基盤となる理屈をつくれればと思っています。基本的に今まで自分が見聞きしてきたものをブリコラージュしていくかたちで思考してきました。入手やアクセスがしやすい、手近な材料で自分の考えたいことを考え、必要なあり方ややり方にたどり着くことさえできればいいと考えてきましたが、これをより多くの人が受容できる文脈に変換していこうと思っています。フレイレの対話の思想、鶴見俊輔の親問題、民間学、在野学、当事者研究などを自分自身が学びながら(←自分にとっての読書会の位置づけ)、これら既にある共通言語を再編成するかたちで理屈が示せればと考えています。


<現在の位置>
フレイレは抑圧そして対話がどういうものであるかをかなり詳細に描いてくれている。僕の考えは、ざっくりいって、一般市民が既に抑圧を内在化させているし、自分という主体を奪われているので、その状態を「学びほぐし(鶴見俊輔)」て、織り直していく必要があり、そしてその学びほぐしの媒体としてDIYが効果的だというもの。

 

世界(人やモノ)と直接的な関係性を作り出していくことが資本主義や国家というものをこえていくことになりうる。DIYは世界と直接的な関係性を作り出していくにあたって、欠かすことのできない媒体。食肉うさぎ工場(イエルク・シュタイナーの絵本)のうさぎのように個々のケージ(生活空間)にバラバラに孤立させられ、お互いをエンパワーできないように疎外されているのが現代。

 

うさぎの島 (ほるぷ海外秀作絵本)

うさぎの島 (ほるぷ海外秀作絵本)

 

 

必要なのは関係性の変化であり、直接的な関係性、関わりのあり方を自ら作り出し、そちらへ移行していくこと。その際、大きな社会を一斉に変える革命ではなく、小規模に個々が実質上の自律度を高めていく、個々それぞれに小さく資本主義や国家の支配度を下げ、実質抜けている状態に近づけていくと考える。

 

自分の立ち位置としては、民間学、在野学といった文脈が今のところ近いかと思える。特に芹沢俊介が指摘するように、在野学、民間学鶴見俊輔のいう親問題(自分の存在のもっとも深い傷・痛みに対応する問い=なぜ生きているか、などの根源的な問い、生きる間を通して問われる。それは自分の生を切り開く力をもつ(鶴見))。僕は今まで根源的な苦しみがあり、それは同時に自分に力と充実をもたらすものだと言ったり書いたりしてきたが、それを「親問題」「民間学」のように、既に提示され受け取られている文脈に翻訳していく。 

 

現在では当事者研究がアカデミズムと補完しあうものという認識が生まれてきているように思う。アカデミズムと民間学・在野学としての当事者研究がお互いを相対化し、健康化させるものとして、認識される方向にいくように思う。

 

民間学・在野学は、自分自身を相対化することができなくなったアカデミズムを相対化するものとして必要とされる。生きるために必要なことをどんどんと外部委託し、何でも専門家にお任せするということが、そもそも人間の疎外(無能力化・無責任化・自信喪失・受動化・保守反動化)を生むものであり、経済自立さえすれば後は考えなくていい無責任な大衆消費者を基礎とする社会が衆愚化し、ポピュリズムに陥るのはシステム上の必然であると思われる。それも思想としてのDIY論を探究していくなかで自明になっていくように思う。とりあえずその方向にむかって概念を整理していく。同時にどのように実践していけばいいかという視点から考察していく。