今回のワーキンググループでは、今までネット上での発言を読むだけだった方たちとオンラインでお会いし、テレメンタリー「わたしがやらない限り」の視聴を媒介にお話しをする。医療や福祉、組織におけるハラスメント対策などそれぞれの現場からのお話しから今まで知らなかった文脈を知ると様々な問題に対する自分の距離感が変わる。浦河べてるの家に対する自分のイメージも、本やネットなどの世間に向けられた顔からできていたことをあらためて実感する。
べてぶくろ性暴力問題の被害者であるpirosmanihanacoさんの呼びかけがなければ、この場はそもそも存在しない。これまでも社会のひずみによって傷を受けた人がそれでもなおシェアを続けることで環境は更新されてきたのだろうと思える。だから生み出された環境を享受することは避けようのない罪を背負うことなのだと思う。そしてそれが応答する必然でもある。誰もニュートラルな場所などにはいない。
最近は罪の取り戻しについてよく考える。
罪を背負うことは重荷だと受け取られることのほうが多そうだが、実際には罪を背負うことで自動的な自己疎外に邁進する自意識がようやく干渉される。結局は罪を認め、背負うことでようやくで救われるのだと感じる。罪を背負えないとき、自分に本当に必要なアクションをとることもできなくなる。なぜなら社会環境と抑圧は一体であり、抑圧だけを取り除いたりはできないからだ。
罪の取り戻しとは、主体性の取り戻しでもあるだろう。ハックルベリーフィンが黒人の男の子を守ることに「罪悪感」を感じながらそれでも友達であること選んだように、抑圧となった決まりごとの外に出ることでようやく主体が取り戻される。決まりごとが閉じた抑圧になっているとき、人間として解放されるためには罪を引き受けなければならなくなる。決められたものの内に完全に埋没するなら自分とはつまり規範であるということになる。
マジョリティは自身の罪を否定して透明な存在であろうとするものだ。マジョリティにとっては汚れのついたものとついていないものの二つがある。そしてうすうすとは自分が罪を背負っていて、綺麗なものではないという感覚があり、うっすら感じられる自分の汚れに苛まれている。そして思考は自動的にそれを糊塗しようとする。自身の欺瞞を認めず、その欺瞞を意識の下に押しこめるためには払えるものは何でも払おうとする。
マジョリティとは「名誉人間」であり、逆からみれば名誉を得られる条件から外れて「人間」から堕ちる不安を常に感じている存在だ。たとえばその名誉を得られる条件は「普通であること」であったり「経済的自立」であったり、「正社員であること」であったり、「結婚していること」などであったりする。
マジョリティは、自分が依拠している名誉を揺るがすものを許さず自動的に否定し、名誉が名誉であるための理由を常に補完し続けなければ出来上がった自分が破綻してしまう。穴が空いたコップに穴は空いていないと信じこむために減った分の水を注ぎ続ける。マジョリティがマイノリティを持っている価値を事あるごとに吸う吸血鬼のようにも感じられるのもこのためだろう。穴の空いたコップにたたえられた水がマジョリティに必要な名誉であり実存であり、水を失うことは自分の死に等しいと思っている。
マジョリティは自分を「名誉人間」たらせる強迫に苛まれており、減衰する価値をあてがうために自分が奪われている。マジョリティとして自分を保っている人は自分がまだない「自分以前」なのだ。
しかしあるマジョリティ性を自分の力で抜けられる人はおらず、自分のコントロールをこえた他者と出会って否応無くレールから外されるという契機がまず必要なのだと思う。既に掲げられている価値に自分を捧げてしまう奴隷であるところから放り出され、さまよいながらそこで出会うものに応答し、以前は見つけられなかった意味を見いだしていくことでマジョリティの残存物としての自分が終わっていくのではないかと思う。
・ワーキンググループについて
ワーキンググループ(WG)をどのように位置づけていけばいいか、引き続き考えている。名前がWGだと学びを趣旨としないグループもWGに入ってしまい、そうなると自分以前だったものが自分に戻るところ、社会から乖離させられた個々人が社会主体であることを取り戻していく場とならない。学びを趣旨とするのは、外の権力関係をグループに持ち込まないこと、既知の自分の感覚や正しさを絶対化して相手に押しつけず、相互尊重に立つことを成り立たせるため。わざと普通の名前にしているところもあるのだが、(ソーシャル)ワーキンググループとでもすればいいだろうか?
今回のグループのやりとりで、公的なケアがシステムとしてあまりに整っていない、既存の支援グループにお金がなく世代交代ができない、院長がハラッサーだとスタッフもハラッサーになるなど現場の話しを聞くに、WGで何でも解決するわけではないが、地域の医者や支援機関情報の共有、自分が持っていない情報を持っている他分野の人との出会い、日常生活と専門機関の間にケアのグラデシーションを生むことなどは、WGの直接的効果、派生的効果として期待できるのではないかと思う。WGの意義は単体としての機能以上に、個々人が自分の必要をみたす場として複数の場所で同時多発的にWGが行われる文化的環境の派生させること、学びの民主化を成り立たせるところにおいている。ここには「当事者研究」がリーダーたちに占有され、支配と管理の道具として使われるものとなってしまった状況をこえることも念頭にある。
〜〜ー
ワーキンググループ
・1人でやるより複数人でやるほうがはかどる作業をやったり、一緒に何かの具体的なテーマや問題についてがある場合などに集まって作業をしたり考えやアイデアなどをまとめるためにつくる即興的なグループ。必要が満たされれば解散する。
ソーシャルワーキンググループ(仮) 寄り合い学び(日本語版)
→学びを趣旨としたグループ
・作業をしたり考えなどをまとめるためのグループであることに加え、学びを趣旨として集まるグループ。趣旨が学びであるため、作業を行うにしても効率最優先を求められたり、誰かが一方的に指導するようなことは控えられる。
ワーキンググループの特長
→脱単一コミュニティ依存
学びを趣旨とすることで相互に尊厳が提供されるという体験が定着し、そこここで個々人が自由にWGをもてるようになれば、個々のWGは分散した居場所となりうる。単一のコミュニティに依存する必要性が薄くなり、グループ内に権力関係の固定化などがおこってきそうな場合でも違うグループに移動できる。
→学びの民主化、社会主体としての個人の回復
学びを知識や技術の獲得ではなく、自身が閉じこめられている出来上がった既知の世界を更新するものと定義するならば、WGにおいて自分に必要な学びは各自ですすめていくことができる。この定義において学びと回復は同じものであり、マイノリティが自らをエンパワーしていく場であり、自分の必要にあわせて社会環境に働きかける主体として回復していくリハビリの場ともなる。
→必要な多様性を自ら確保するためのWG
同じ問題を共有するように思える社会運動間においても、複合的なマイノリティ性を持つ場合は疎外される場合があり、必要な多様性は十分であるとは言えない。自分も香害のチラシづくりのWGをやる予定だが、自然志向とスピリチュアル志向が近い傾向なども往往にしてあるので、スピリチュアルではなく、自然原理主義にも回収されないグループでやりたい。単発性のWGを複数回やることによって、グラデーションを同じくする人たちと出会い、そのうえで協働することができる。
→尊重の考え方について
・グループでは、1人1人の人がそれぞれに自分自身のプロセス(時間)を生きている存在だと位置づけられる。グループとしては具体的な作業をやりつつも、それぞれの人のプロセスや歴史の固有性が重視され、尊重される。誰もが無自覚な差別をもっていることを踏まえ、少なくともグループ中においては「自分の常識」や「正しさ」にあぐらをかかず、学びの趣旨に照らし、人を変えたり教えたりするのでなく相手の存在によって自分自分が新しい価値を発見し変わっていくという姿勢をベースにおく。
→現在の自分の状況から
二週間に一回行なっている読書会は、読書会と銘打ちながらも本ではなく普段自分が考えていることや経験したことを発表できる場になっている。自分におこっているプロセスを各自がすすめる場という位置づけ。本を読んで発表する場合も一冊読む必要はなく、一章でも一行でもよい。自分のペースを確認しチューニングするリハビリのほうが重要だと考えている。定期的に行なっているこの読書会のなかでこういうことがやりたいなというアイデアや提案が出ればこの指とまれで有志がWGをする。WGを派生させる仕組みとしての定期的な読書会の場という側面もある。個々のWGを派生させるハブのような効果を持つWGの存在も重要だと思う。自分の周りでは、個々人が自分の必要にあわせて話しの場をもつことはだんだんと自然なこととして定着している感じがある。