降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

現秩序への反逆としての人権概念

福祉や教育、人権啓発系などの団体が内部では人権侵害している話しがよく聞かれる。企業や大学などのハラスメント委員会や相談機関みたいなものが、実態としては被害者の人権を守るよりももみ消し機能として設置されている話しもまた。

 

日本には「みんなの迷惑にならないよう」とかいうような、通俗道徳はあるけれど、実態として人権という概念は存在していない。

 

人権もあくまで自分たちに馴染みのある通俗道徳(よく聞くと実のところは保身のための処世術なのだけど)の枠組みのなかで理解されるので、今日本で人権として定着したイメージはそもそも人権とは別ものだろう。

 

もしここの社会で昔のアメリカのようなわかりやすい奴隷制があったとしても、それが「一般的」だったら、多分制度を変えることによって混乱がおき、社会の回り方が変わってしまうようなことは「正しくない」と判断されるだろう。

 

そしてそれを変えようとする人が現れれば、「お前のせいで私や私の周りの人が迷惑を受けるんだぞ」となって、周りもそうだそうだとなるだろう。たとえ一定の理解は示す人がいても賛成は決してしない。事を荒立てるのがここの社会では悪だという感覚が幼い頃より強く内面化され、身体化されているから。

 

人権はそもそも一方的に支配される関係に対して、反逆として生まれてきたはずだ。多分、その当時も「民は大事だが暴力的に事を変えるのはいかがなものか」「今の制度以上のものを保証できないのなら無責任だ」という向きもあっただろう。にも関わらず、「社会」を混乱させながら人権概念が提示され、力でそれを認めさせた。

 

「暴力反対」は抑圧的な秩序を敷くものにとっても大変都合がいい。まず自分たちは暴力で土地や富を奪い、裕福な支配階級を形成したのちに、「機会平等」な社会を作って暴力をやめましょうという。ところが裕福なものはスタートラインが違うので、今のこの社会でもかつての士族など特権階級がそのまま富裕層にスライドしている。自分たちが揺るがないようにガチガチに仕組みを作って、見かけ上は平等にする。

 

そしてこの構造的暴力のなかで、どうしようもなく暴発する人は犯罪者として取り締まり、見せしめとして罰を与えるのだ。

 

自分自身もまた通俗道徳(正しいかどうかは問わず、強いものを仕方ないとまず無条件に認め、そこからの自分の被害を最小化する「処世訓」をつくる。そして周りにその処世訓を押しつける。)に浸った環境では何が筋なのかがぱっと見えにくくなっている。だからやはり筋がなんなのかをきちんと確認していくことが必要だ。

 

人権概念の確立とはそもそもみんなが我慢して構造的暴力を黙認した「平穏」を否定した反逆であって、力でそれを社会に認めさせたもの。人権は別に事を荒立てることを悪などとしていないばかりか、積極的に抑圧を解体しようとして生まれてきている。人の本来とはどのようなものか。まだ体験していない人の本来を目指している。

 

社会が自身のいびつさに起因している自殺の増加には向き合わないのに、一方で過剰に「生命」至上主義をとっているのは、一つは自身がかつて行ったようなことを自分にして返されることを防ごうとしていることがあるだろう。

 

「お前の行動のせいで誰かが死ぬことになったらどう責任をとるのだ」ということだ。誰かが社会を揺るがすようなアクションをおこすこと、現秩序に亀裂をいれるようなことなど、「すること」は徹底的に潰そうとし、自殺生産回路である構造的暴力への干渉に対しては「生命」をたてにとる。

 

「する」暴力は悪だが「しない」暴力はどんなにその影響が大きくても許容される。当然に暴発がおこるわけだが、その暴発からは社会的文脈、歴史的文脈が奪われ、その人個人の悪にされる。よって、社会を変えるということは、おこった暴発に対して、本来提供されるべきだったものが提供されていない人間の毀損が問題だったわけで、その人個人だけの責にするのではなく、社会を変えていく契機として応答する必然がある。

 

人権と通俗道徳はその核において水と油のように相反するものだ。

 

なぜならば人権は未完成な現秩序を更新していくこと、人の本来のありようが現秩序によって毀損されている人を本来のありようにもどすことが目的とされているので、そのために現秩序を変えていくということが内在されている。

 

一方、通俗道徳は先にも述べたように、今強い現秩序を仕方なしにであれ受け入れ、それを前提にしたうえで、被害を最小化しようとする保身の処世術であり、それは周りに同調圧力をもって強要される。

 

(もちろん通俗道徳は支配される側が守るものであり、支配する側は何でもありだ。さらには支配するものは通俗道徳をたてにとって、自分たちの都合のいいように人を利用し、搾取しているという自らの意識さえごまかしながら搾取する。べてぶくろにおいて性暴力事件が公になることを抑圧しようとした事例でも、べてぶくろの活動に支障がでるから(=みんなに迷惑をかけるな)と被害者に世間に対する沈黙を強いたように。)

 

ここの社会にいるものにとっては全く位相が違うもので、あり得なさそうなもの。それが人権だ。

 

人権は現秩序を守るものではなく、現秩序に埋没して感覚まで浸かってしまっている自分たちが、本来の人のありようとはどういうものかを既に知ったものとせず、探究的に問いながら、本来の人のありようというその理念の実現に対して踏み出していくことだ。

 

人権概念が生まれたそのそもそもの経緯を踏まえるならば、人権を守るとは細かいマナーを遵守して既にあるものを維持することではなく、隠されているため見えなくなっている現秩序のゆがみを見つけて、「本来の人のありよう」が毀損されている現状況を変えていくこととなるだろう。

 

人権概念はもともと未来志向だ。通俗道徳が現秩序を支配者を認め、既にあるものに閉じるのとは逆だ。人権概念は現秩序への反逆を宣言するものであり、実践として当たり前となっている現秩序を変え次の当たり前に更新していくためにある。

 

さて、冒頭で述べたことに戻ろう。既存のものが人権を守るためには用をなさない状況がある。専門家の診断によって奪われた主体性と苦労(その人として生きている固有のプロセス)を自らに取り戻そうと生まれた「当事者研究」もまた、当事者研究の専門家によって簡単に支配や搾取の道具にされうることがわかった。

 

当事者研究もまた、その枠組みを専門家のような権威におまかせしてしまうなら思考の主体は奪われてしまう。ならば、どこからはじめればいいのか。当事者研究をしても、なおそのことが専門家から研究の対象にされてしまう。

 

しかしこの状況をまた当事者として「研究」していくことが奪われた主体を取り戻していくことになるだろうと思う。つまり社会公共的組織においてもなぜ人権侵害がおこっていくのか、それはどのようなパターンをとり、それに対してどのような対応が可能なのか。そのことを「専門家」にまかせず、自分たちで研究していくことが奪われた主体性を取り戻していくことになるだろうと思う。

 

ハラスメント委員会がなぜもみ消しをするのか、それを宿命論的に認め、世界とはこんなものと絶望し、孤立するのではなく、客体化され、無力で自分に必要な枠組みを自分で考える力がないと位置づけられている当事者たちがそれを逆に「研究」していくということができる。世界とはなんであるかを確かめていくのは専門家ではなく、自分なのだというところに戻る。そしてこの現状を変えていくのまた自分だ。

 

隅に追いやられ、何の能力もないと思わされているけれど、自分なりに確かめていく必然があることは確かめていける。そして環境をつくりだしていくこともできる。「専門家」が管理するこの社会において、お客さんになり、その結果好きにされるところから逸脱していこうとするとき、自分にふりかかってきた必然に応答していくという選択肢がある。

 

そしてこの主体化は、まだ知らない「本来のありよう」を問い、探究するものであり、環境を実際に変えていくものとなるだろうと思う。